大学と道路を占領する米軍(侵入編)

 一年ぶり(汗)の「米軍ヘリ墜落・占領事件」の続きになりますが、なにしろ今日は事件が起きてから6年目の日ですので、ちょっとだけでも(今後、途中までになっている記事をまた追加していきます)。過去記事は「米軍ヘリ墜落・占領事件」カテゴリーを選択してご確認ください。


 例によって『墜』の記述を中心に*1

墜―沖縄・大学占領の一週間

墜―沖縄・大学占領の一週間


 
 6年前の普天間基地所属米軍ヘリ大学墜落事件の大きな特徴は、墜落後、米兵が学長の許可なく大挙して私立である沖縄国際大学に侵入し、その後、墜落現場である大学の敷地の一部と建物,周辺道路を占領・封鎖したことだ。


 ・・・・・・まあ、百歩譲って、大学に侵入したことは、「ヘリの乗員救助」のための緊急処置としてもいいだろう。ちなみに「炎上したヘリの消火活動のため」というのは当てはまらない。実際に米兵たちは消火活動は行っていないどころか、(意図的ではないとしても)宜野湾市消防隊の消火活動の邪魔だったのだから。
 鎮火前後に現場周辺を封鎖したのも、再炎上や爆発の危険から民間人を守るという理由ではありません。米軍側は、一般人だけではなくまさに再炎上が起こらぬよう調査しようとした宜野湾市消防隊をも現場から排除していますし、何よりプロペラの一部など爆発とは無縁の部品が墜ちた別の道路まで封鎖したのだから。


 さて、ヘリが墜落した沖縄国際大学普天間基地は最も近い地点で20メートルほどの距離しかない。沖縄国際大学の裏門と駐車場の入り口が基地に面している。
 米兵たちは、事故直後、普天間基地のフェンスをよじのぼり、そのまま裏門と駐車場入り口から大学構内になだれ込んだ。その数は第一波だけで100人前後はいたという。そんな大量の米兵がなだれ込んで来たのは、学生たちにとって新たな恐怖だっただろう。


 そして彼らの現場到着は、いくらなんでも異常に早かった。
 

 混乱の中で、最も正確な時間を記録していたのは、宜野湾市消防署であろう。
 宜野湾市消防署に第一報があったのが、14時19分。(復習すると、米軍ヘリが1号館に激突したのは、14時18分21秒。大学前のコンビニの防犯カメラに激突時の音が録音されていたため判明した)
 そして「大災害になる!」と判断した消防署は27人の隊員すべてを動員し、タンク車など計11台で現場に向かう、しかし、すでに墜落の影響によって周辺道路に縦隊が発生していたため、到着が遅れ14時27分に現場に着いた。


 しかし、その時にはもう米兵たちが現場に到着し、機体に閉じ込められていたパイロットを救出し*2、応急手当をしていた。
 とすると、米兵の現場到着は(救助が終わっていたことから)、それこそ墜落から遅くても3,4分もかかっていないことになる。
 さっき、沖縄国際大学普天間基地は極めて近いと言ったが、それでも墜落現場である正門近くの1号館は、普天間基地のフェンスから約400メートルは離れていたのだから。


 このため事故後しばらくの間、県内では「米軍は墜落の危険をいち早く察知していたのではないか」という疑念が生まれた。そうだとすると、米軍は病院や消防などに連絡しておくべきであった。


 しかし、米軍の管制記録によれば、管制官および事故機の乗員が機体の異常を察知したのは、墜落のわずか30秒ほど前のことになる。この管制記録を信じるとすると、事前に危険を伝える時間は確かになかった。


 だが、墜落後、米軍が消防にも病院にも市にも何も連絡をとろうとしなかったのも事実である。消防隊への通報は住民からだし、市に至っては、一時間後に市役所の方から米軍に問い合わせてやっと連絡がついた。


 さて、実に皮肉なことながら、事故当日、宜野湾市市長は市民に向けて普天間基地撤去のための訪米要請行動の報告会を開催しようとしていた。宜野湾市*3普天間基地の撤去を公約に掲げ、その一環として自らアメリカに行き要請行動をしていた。そしてその報告会の日・・・


「沖国大にヘリが落ちたので、今日の報告会は中止します」
 突然のアナウンスに、沖国大から二キロほど離れた市中央公民館の『訪米報告会』会場は騒然となった。(中略)
 報告会は十四時からだったが、開会の前に普天間基地がいかに危険な基地であるかをまとめたVTRが流された。参加者たちが学校の上空を巨大な輸送機やヘリが飛びまわる映像を見ていると、取材の記者たちの携帯電話が鳴り出した。彼らは慌しく出て行き、何か起きたなと皆が思っていた時、そのアナウンスが流れたのである。(『墜』P24〜25)


 市長への通報は米軍ではなく、消防署からであった。


 現場に着いた消防隊であったが、燃料の種類や爆発物の有無がわからなくては消火ができない。しかし、周囲の米兵に尋ねても「わからない」「答えられない」の一点張りだった。
 そこで消防隊は大量の消化剤を撒いて鎮火を試みる。本来、軍用ヘリの消火に当たっては前方についている機銃避けるため、後方から消火活動するのが鉄則であったが、炎と煙が激しく機体の損傷も激しくてどちらが前方かわからず、危険を感じたまま消火活動を続けた。そして火が消えてみると、消防隊は自分たちがまさしく機銃の銃口のまん前にいることに気づき、慌てて一時退避したという。
 また、半ば消火したところで、やっと普天間基地の消防隊が来たのだが、彼らが水をかけてせっかく散布した消化剤まで流されてしまわれそうになったので、慌てて宜野湾市消防隊が止める、といった場面もあったらしい。


 そんなこんなで、激しく炎上していた機体も15時8分には鎮火された。しかし、宜野湾市消防隊にはまだ、機体周辺に被害者がいないか、爆発の危険や火災原因について調査する仕事が残っていた。しかし・・・・・・

 宜野湾市消防は指揮本部で今後の対応について話し合っていた。爆発の危険や負傷者、そして事故原因について調査する必要がある。
 が、彼らが現場に戻った時、そこはすでに米軍に包囲されていた……。
「現場を包囲した米兵に『調査させてくれ!』と交渉しても、『民間人は入れない』の一点張り」「私たちが現場に着いてまず心配したのは、学生さんが機体の下敷きになっていないだろうか、ということでした。(中略)『米軍は、いったい沖縄人の命をなんだと思ってるんだ!』と、すごく憤りました」
 隊員の一人は当時のことを右のように話す。消火活動が終わると、宜野湾市の消防隊は用無しになり、現場から追い出された。米兵の中には抗議する消防隊員に対して、腰の拳銃に手をかけるものまでいたという。(『墜』P29〜30)


 消防隊にはまだ仕事が残っていたのであり、それは市民・学生の安全のためにも必要なことであった。もし「市民・学生の安全」のために現場を封鎖したとしても消防隊の活動は許可すべきであった。そしてもし消防隊も「民間人」として危険から遠ざけようという意図があったなら、そもそも最も危険な消火活動を担わせるべきではなかったのである。

*1:本の記述の他に、私が目撃者の知人やニュースなどで見聞きした情報も混ざっている

*2:乗員3名のうち2人は自力で脱出。爆発と大規模な炎上は墜落後すぐではなく、パイロット救出直後に起こった

*3:現職。今年の沖縄県知事選には、普天間基地の県内移設反対を掲げて出馬する予定