12月読了記録
- 作者: 石切山英彰
- 出版社/メーカー: 高文研
- 発売日: 2003/07
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北の村のはずれの井戸には、殺された中国人の死体が放り込んであった。井戸は死体でいっぱいになっていて、「本当にむごたらしかった」。これらは地上で死んだ者たちのようすであって、地下も含めて正確に何人が殺されたかなど、王さんには集計を出す余裕もなかった。
地下道を掘り起こすと、さらに惨憺たる様相を呈していた。まさに死屍累々というありさまだ。特に王さんの目を引いたのは、一歳にも満たない赤ん坊を母親が胸に抱いたまま死んでいる光景だ。子どもも、女性も、老人も、みな区別なく殺されていた。
「惨! 惨! 惨!」(むごい! むごい! むごい!)と王布雲さんは、筆者の前で声を張り上げる。
あなた(筆者)がどういう目的でやっているのか知りませんが、この事件はもう六〇年前のことで、すべて風化してしまったんでしょう? こんなことして(事件の調査なんかして)、なんの効果があります? 事実を知りたくても『連隊史』にあるし、まあ、なんの効果があっておやりになるのか、さっぱりわかりませんね。
このこと(北坦の戦闘)についてはね、戦友会でもよく話があって、もう我々には済んでしまったことですよ。まあ悪いことして、こちらから済んでしもうてというのは、おかしいけども。だから(調査を)やめろ、と言うわけじゃありませんけど。
こうした民衆の支持に支えられて、抗日活動はさまざまに展開された。(中略)村々には八路軍側の村長と、日本軍に対応する村長の二人を置いた。また、中国人のカイライ軍に対しては、「同じ中国人同士が殺し合うのはやめよう」という説得工作を行った。
このようにして事件の一年後、四三年五月頃には、形成に大きな変化が現れた。もはや日本兵が三〜五人程度で村まで気ままにかっぱらいや村人をぶん殴りに来たりはできなくなった。それどころか、一〇人、二〇人でも軽々しく村に入れなくなった。彼らはトーチカのなかにこもるようになり、真っ昼間から抗日部隊が移動するのが見えても、撃ってこなくなった。さらには、トーチカが民衆に破壊されたり、日本軍部隊がトーチカから撤退を余儀なくされるという新たな情勢さえ、一部に出現した。
つまりあれほどの疾風怒涛の「五一大掃討」も、冀中の民衆はおよそ一年間でその被害からほぼ完全に立ち直った。のみならず、逆に侵略者を叩き出す一歩手前まで力関係を逆転させたのだ。勢いはその後もとどまることなく、四五年八月十五日の日本軍の無条件降伏までなだれ込むことになる。
三光作戦は、中国の民衆を屈服させられなかった。逆に、三光作戦こそが、民衆の前に屈服したのだ。
- 作者: 小松かおり
- 出版社/メーカー: ボーダーインク
- 発売日: 2007/09
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- 作者: アーネスト・T.シートン,藤原英司
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1972/03/18
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だが、このウイニペグのオオカミが心の中で何を考えていたかは誰にもわからない。オオカミがそのような苦難の道をえらんだ真の動機はなんだったのだろう? くる日もくる日も闘争にあけくれる土地から離れようとしなかったのはなぜだろうか?
(略)
そのオオカミが復讐しようとしたのだというのも、あたっていない。動物というものは、自分の生涯を棒にふってまで復讐しようとしたりすることはないものだ。そのような恐ろしい考えは、人間の心だけにしか見られない。野生動物というものは、平和を求めるものなのだ。
そうだとすれば、そのオオカミをこの土地にしばりつけていた原因は、ただひとつしかない。それはこの世の動物が、すべてもちうる最も強い欲求、つまりこの地上で最も強い力をもつものということになる。
(略)
つまり毎年クリスマス・イブに鐘を鳴らすと、教会から百歩ほどのところにある木々の茂った墓地から、不気味なもの悲しいオオカミの咆哮が、かならず聞こえてくるというものだ。そしてその墓地には、この世でただ一人、あのオオカミに愛情をそそいだジム坊やが眠っているのである。
激しい風が吹きはじめた。いよいよ吹雪の到来である。するといつの間にか、例の小人が姿を現わした。小人は今ごろ、どこからきたのだろう。それは誰にもわからなかった。だが、とにかく小人はそこにいて、石の上ではねとびながら、こんな歌を歌った。
ノルウェーの運命と、
ノルウェーの幸運、
見えない小人と
走るトナカイ。
(略)
小人はその時、橋の上から軽々と白いトナカイの頭にとびのった。そして角につかまってダンスを踊りながら、昔の歌をうたった。新しい歌もうたったが、それはこんな歌だった。
ははは!
ついにやってきたか!
おお、幸運の日よ!
ノルウェーの
呪いは
今こそ
ぬぐい去られるのだ!
(略)
白いトナカイは、飛ぶようにトビンデハウグの峰を越え、沼地の上を突きぬけて、はるかヨットンハイムの峰のほうへ消えていった。あの悪霊たちのすむ、万年雪に閉ざされた遠い峰のかなたへと向かっていったのだ。
(略)
その後、白いトナカイを見た者は誰もいない。危うく祖国を売りそうになった男についても同じだった。だが、ヨットンハイムの峰ちかくに住んでいる人は、今でも言うのである。嵐の夜、吹雪が森に荒れ狂う時、ときたま真白い巨大なトナカイが吹雪を突いて出現するという。白いトナカイは火を吹くような目つきで、猛スピードで走り、そのうしろには白いソリにのった白い男が、気ちがいのように叫びながら引かれ、トナカイの角の間には、小人がバランスをとりながら踊っている。その小人は茶色の上衣をつけ、白いひげをはやしていて、見ている人のほうへおじぎをし、楽しそうにほほえみながら、ノルウェーの幸運と白いトナカイについてうたうという。
- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1992/01
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私はそのなくてもよい過去を”不幸”と呼び、女達はそれを、自身を支える為の”物語”とする。不必要な現実を胸の中に留め、それを自身を支えにする女達を見て、私はそれを”物語を生きる”と呼ぶ。
何故女達は、不必要な不幸を捨てて、現実を生きようとはしないのだろう? あるいは女達にとって、”現実”とは、男が男の為に作り上げた別箇の物語でしかないということなのだろうか?
女達は現実の中で、現実とは抵触しないように、物語の几帳を巡らす。それが”女としての潤い”であるなら、女の物語を持たぬ男に、その潤いを与えることは出来ない。物語を求める娘は、濃厚な物語の内に身を沈める女達のものだ。私の娘は物語を求め、祖母と出会い、母と会った。女は結局、物語に還るのだ。
仕方がない。物語がなければ女達は生きられない。女達は、自身の拠り処となる空想物語をガツガツと貪り、現実を見下して自身の内のみに生きる。哀れというのは、それに仕える男だ。
(略)
女にとって、肉親も他人も男女の仲も、物語の筋に関わってこそ意味があり、物語に外れたものになんの意味もないという根本の定理を知らず、私は哀れにも、「現実を成り立たせる根本」などというものを、女に向かって説いていたのだ。
「一の御子を生んだ母女御に斥けられた桐壺の更衣の孫が、春宮の桐壺の女御となって一の御子を生んだ」
それがなんなのだろう? それこそが私の為すべき使命なら、私という男には、なんの存在理由もない。
私の母は遺書など残さなかったし、私の中には、母に関する記憶の欠落しかない。私には母の物語を生きようというつもりなどなかったし、私はただ、私の生き延びる現実を生きただけだ。
私は現実で、私の前に女達も現実で、私はその女達に現実を与えようとし、結局女達は、彼女の手で選び取った”物語”を生きる。
私は物語として語られ、ただ物語を生み出すだけの男なのかもしれない。
哀しいことだ。
だから私は、紫の上の腕に抱かれて、彼女自身の”物語”となる。彼女を悪く言う人は、一人もいない――。
- 作者: 浅田次郎
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- 発売日: 2004/10/15
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- 作者: O.R・メリング,井辻朱美
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ローレルは泣いていた。妹のために。イアンのために。自分自身のために。なにひとつ完全なもののない、希望と夢の国でさえないこの世の、光と闇のもつれあいのために。
- 作者: 橋本治
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- 発売日: 1991/11
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窓 WINDOW―硝子の街にて〈1〉 (講談社X文庫―ホワイトハート)
- 作者: 柏枝真郷,茶屋町勝呂
- 出版社/メーカー: 講談社
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- 作者: 梨木香歩
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硝子の子守歌 炎の蜃気楼シリーズ(3) (炎の蜃気楼シリーズ) (コバルト文庫)
- 作者: 桑原水菜,東城和実
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- 作者: 魚住直子
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- 作者: 兵藤裕己
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芳一がそうであるように、琵琶法師はふつう盲人である。目が不自由なかれらにとって、耳とはなんなのか。
(略)
本を読んだりテレビをみるのに熱中しているときも、まわりのもの音に気がつかないということはよくある。私たちの意識の焦点は、ふつう目が焦点を結ぶところに結ばれる。耳からの刺激は視覚によって選別され、不要なものは排除または抑制される。
目の焦点をうつろにしてぼんやりしているとき、またはその状態でぼんやりしているとき、目をあけていたときには気づかなかったもの音が聞こえてくる。目による選別がなければ、私たちの周囲は、見えない存在のざわめきに満ちている。
耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくるノイズは、視覚の統御をはなれれば、意識主体の「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振(シンクロナイズ)させてゆくことが、前近代社会にあっては、〈異界〉とコンタクトする方法でもあった。
「耳なし芳一の話」を英文で再話したハーンじしん、片目に障害があったことはよく知られている。視覚の不自由なかれが、霊的(スピリッチュアル)な世界に関心を寄せる「耳の人」だったことは、平川祐弘が述べている(『小泉八雲―西洋離脱の夢』)。
民間で語られた物語は、過去(むかし)の死者たちの語りである。モノ語りを語るとは、見えないモノたちのざわめきに声をあたえることであり、それは盲人のシャーマニックな職能と地つづきの行為である。そして声によって現前する世界のなかで、語り手がさまざまなペルソナ(役割としての人格・霊格)に転移してゆくのであれば、物語を語るという行為は、近代的な意味でのいわゆる「表現」などではありえない。
「悪七兵衛」「悪源太」の「悪」は、かれらの霊威のはげしさをいうのだが、とすれば、平家物語でくりかえしいわれる平清盛の「悪」とはなんなのか。
平家物語の前半でくりかえし語られるように、仏法と王法で構成される王朝の秩序をカオスにおとしいれたことが、清盛の「悪業」である。
(略)
摂津国清澄寺の僧、慈心房尊恵は、閻魔庁の法会に招かれて冥土へ行き、閻魔大王から、清盛が慈恵僧正の再誕であること、また大王が日に三度清盛を礼拝することを告げられる。冥土から蘇生した慈恵房は清盛邸へおもむき、大王から託された文を献上したが、それはつぎのような偈文だった。
敬礼慈恵大僧正
天台仏法擁護者
示現最将軍身
悪行衆生同利益
「慈恵大僧正」は、延暦寺の中興の祖と仰がれた第十八世天台座主、元三大師良源のこと。その慈恵僧正良源が「最勝将軍身」である清盛として示現した。だから、清盛の「悪業」は衆生にとって「利益」におなじなのだという。日常的・二項対立的な善悪の価値観そのものを転倒させるのが、清盛の「悪」である。
平家物語の最末尾、灌頂巻で、建礼門院によって供養・鎮魂されるのは、清盛の血をひく幼帝安徳の御霊である。幼帝の御霊がいかに怖れられたかは、その「安徳」という追号からもうかがえる。
異形の皇子平清盛の「悪」の物語にはじまり、海底に没した幼帝安徳の鎮魂で終わる平家物語とは、たしかに霊威はげしい御霊の語りとして発生したのだ。「平家」のモノ語りを語り、荒ぶる御霊をまつり鎮める琵琶法師たちは、やがてみずからの職能を、清盛の娘であり、荒ぶる御霊若宮の母である建礼門院の物語に同化させてゆくことになるだろう。
『愚管抄』巻五には、安徳帝は、平清盛の祈誓にこたえて「竜王のむすめ」厳島明神が変成男子として出生したゆえ、八歳でもとの海に帰ったのだとする説が記されている。また、平家物語巻十一「剣」は、宝剣草薙剣が壇ノ浦でうしなわれたことについて、かつてスサノオノ尊によって宝剣を奪われたヤマタノオロチが、八歳の帝となって宝剣をとりかえしたとする陰陽博士の説を記している。