2月読了記録


マリア様がみてる 10 レイニーブルー (コバルト文庫)

マリア様がみてる 10 レイニーブルー (コバルト文庫)

★★★★☆

 気づかなかっただけで、乃梨子はずっと志摩子の手を取って迷路の先をカンテラで照らしてくれていたのだ。
 だから、志摩子はもう独りで歩かなくてもいいのだ。肩の荷を一緒に背負って欲しいと、乃梨子になら甘えることができそうだった。
(略)
 土に書いた名前が、雨粒で少しずつ消されていく。
志摩子さんが卒業するまで、側にくっついて離れないから」
 乃梨子が嬉しそうに笑う。首に掛かったロザリオに雨粒が落ちて、珠と一緒にキラキラと光り輝いた。
「だったらもう、私は寒くないわ」
 二人は桜の木の下で寄り添って、降る雨を眺めた。

神去なあなあ日常

神去なあなあ日常

★★★☆☆



翻訳者の仕事部屋

翻訳者の仕事部屋

★★★☆☆

 誤訳の原因には、単純な読みちがいや意味の取りちがえから、純粋な文法上の誤り、背景知識の不足などいろいろあるが、この大半は、想像力を働かせることによってなくせると私は信じている。
(略)
 想像力を用いることで、これでは意味が通らないとか、どうもへんだ、なにか足りない、といったことに気づくだけなのだ。また、誤訳とまではいかなくても、引用などをそれと気づかずに訳してしまうこともある。これなども、前に述べたようなことを頭に置きながら読んでゆけば、まず十中八九、他の文章との微妙なちがいが、直感のアンテナに触れてくる。想像力はここでも役に立っているのである。
 それだけに、それが思いどおりに働いてくれて、ぴんとこなかったところ、表現に苦しんでいたところがずばりと解けたときのうれしさ、快さは、なにものにも代えがたい。私など、その楽しみのために翻訳をやっているようなものだ。

 普通、小説というものは、作者がなにを語るかだけでなく、いかに語るかということにも心血をそそいだ作品である。だとすれば、翻訳者も
、作者がなにを語っているかを正確に伝えるだけでは不十分、いかに語るかを伝えることができて、はじめて訳者の名にあたいすると言えるだろう。
 翻訳の批評というと、訳文だけをとりあげて、「よくこなれている」とか、「平明で読みやすい」とかいった表現が目につくが、こういうのを見ると、じゃあ原文も平明で読みやすいのかしら、などと意地の悪いことを考えてしまう。すくなくとも小説の翻訳に関するかぎり、平明でもなく、読みやすくもない文章、こなれていない、ところどころひどくもたれる文章(略)、というのがあってもいいはずだし、批評するなら、そういう訳文の文体をも含めて、全体をひとつの作品として見る姿勢を持ってもらいたいと思う。私なども、たとえ及ばずながらでも、いかに語るかをつねに心がけているつもりだし、それが多少なりともうまくいったと感じられるときに、これこそ翻訳者の醍醐味ではないか、などと思うのである。

窯変 源氏物語〈9〉

窯変 源氏物語〈9〉

★★☆☆☆

権力者には成程、年爵と言う、半ば私物化された官位の推薦任命権が与えられている。しかしだからといって、これを己の息子に適用する者はない。それをしなければならないほどの信用のない者に、権力などというものが集まる筈はない。
 権力者の息子の昇進というものは、除目の席でその意を汲んだ周囲によって取り計らわれるものだ。

 安定の時代に、表立った権力闘争は最も醜いものとして映る。そのことによって人望を損ね、権威の失墜を見る。なにしろ朝廷というものは、「それを上とする。上にあって然るべきもの」という人間達の幻想によって成り立っているのだから。幻想によって成り立つ支配構造を支えるものは、未熟な人間たちの思い込みだ。人望こそが最大の財産で、人事こそが最強の武器だ。権力者というものは、人望以外に何の存在基盤をも持たない、信仰の対象に等しい。拮抗はしても「対立」を囁かれても、決して表立った争いはしない。その点で、一人の男の寵を争う女達の方がまだ正直だ。平気で、白昼の都大路で車争いの騒然を演じてくれる。

 それは夜。
 これは昼。
 そのように、兄と私は分け合った。

 これは昼−輝く光の映えぬ昼。それこそが兄。
 これは夜−輝く光のその外は見えぬ。これこそが私。
 光の見えぬ昼の兄と、光輝く夜の私。
 闇を滲ませて息づく薄明の兄と、闇に閉じられて、悲鳴のように輝く弟。
 昼の光は夜に適って、夜の光は昼に紛う。
 闇が私を包み、私はその闇を、受け入れることが出来ない。
 私と朱雀院は、その夜に遭い、そして別れた。