3月読了記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

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杉本「前線できいたところでは、八路軍は捕虜を殺さないということでしたが、本当ですか」
張氏「本当ですよ。安心して下さい」
杉本「殺されないということになると、困るんですよ」
張氏「えっ、どうしてですか」
杉本「捕まったときには、もうおしまいだと観念したんです。『万一捕まったら、相手は匪賊だから、なぶり殺しにされる』と聞かされていましたから。その日本軍の言い分はデマだということはわかったんですが、もし八路軍が私を殺さないとなると、私が自決しなければならないことになるでしょう。かえってそれは残酷ではないですか」
張氏「そういわれては、かえって私たちは困ります。殺せと要求されても、絶対にころしません。このことは私たちの軍律であり、同時に私たちの信念です」
杉本「私たち日本人は『生きて虜囚の辱めを受くることなかれ』と教育され、それが男としての道だと信じています」
張氏「おどかさないで下さいよ。まちがっても自殺などしないで下さい。すこし気楽に考えたらどうですか。ともかくせっかく来られたのですから、私たちの生活を経験してみるのも、話の種になるのではありませんか」
杉本「そんなゆとりはありません。生きるか死ぬかで頭がいっぱいです」
張氏「日本のことわざに『死んで花実が咲くものか』と言うでしょう。あせらず急がず時間をかけてゆっくり考えようじゃないですか。帰りたくなれば帰してあげます」

 部隊から部隊へ、地区から地区へとまわるうち、ある日、宿泊予定の小村に着くと、なんとほとんどの家が焼きはらわれているではないか。一家五人が殺された無残な現場にも出会った。日本軍がやったのだ。それまで私は日本軍の蛮行現場を見たことがなかった。
 小林や岡田は「日本軍の蛮行は事実だ」といっていたが、私には信じたくない気持ちがあった。それまで私が見てきた日本軍は、都市や駅に駐屯している平穏な顔の日本軍で、その裏に獰猛な顔がかくされていることに思い至らなかったのである。
 しかし、今回はちがった。この生々しい事実に直面して、裏切られた思いと怒り、被害を受けた人びとへの申し訳なさで身体がふるえた。
 私たち二人が日本人であることを知った村人の顔が、とたんに変わった。あの憎悪にもえたった目の光を私は忘れることはできない。江右書氏の必死の説得で、私たちに向けられた民兵銃口は、はずされたが、心のなかで私は「当然だ、無理はない」と叫んでいた。
(中略)
 いかに敵性地区であるとはいえ、無辜の民を惨殺し、家を焼くという非道な行為は許すことはできない。こんなことをさせてはならない。この非道に中国人が反抗するのは当然だ、と焼けつくような思いにかられた。

 中国の抗戦が正しいとわかった以上、これを支援する以外に私には方法はない。正しいと信ずる道で倒れても、もともと一度は死んだと同じ身で、惜しくは内。この決心がこのときを境に深まったのである。
 太行山脈の東端に立つと、広漠たる河北平原が地平線のかなたまで見渡せる。それを目のあたりにしたとき、思わず郷愁をおぼえ、山をかけ下りて逃げ帰りたい衝動にかられたこともある。しかし、ともかくふみとどまって自分の決心を反芻した。
 決心を行動に移すことだけが、日本軍の蛮行に対する中国へのせめてもの贖罪だ、というのがそのときの私の気持ちであった。また、日本兵士にたいし「馬鹿なことをやめよ」とよびかけて、彼らの蛮行を少しでも減らそう。新しく捕虜になってくる日本兵士にたいしては、同じ苦しみを味わったものとして、新しい道のあることを知らせ、彼らの苦悩の過程を少しでもちぢめる手助けをしよう――
そう考えたのである。
 そのような仕事をするには、捕虜の立場から一歩ふみだし、八路軍のなかで同志とみなされるような立場に立たなければ、十分な活動はできない。その道はただ一つ、八路軍に参加することだ。この私の考えに小林君も同意見であった。前線行脚に出かける前は、退屈しのぎにもなるだろう程度の軽い気持ちであったが、そんな気持ちはどこかへ消えてしまった。

八路軍という軍隊は他に類例のない、まったく不思議な軍隊であった。いったんそのなかに入れば、その作風は人を魅惑し、離れがたくしてしまう軍隊であった。

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