4〜7月読了記録

 だいぶ間が空きましたが、あまり本が読めなかったなぁ〜。
 今回から引用に加えて可能な分だけでも目次も書いてみようと思います。


([た]2-1)書店繁盛記 (ポプラ文庫)

([た]2-1)書店繁盛記 (ポプラ文庫)

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目次
第一章 リアル書店で働いています
第二章 本屋さんの事件簿
第三章 開店準備は大変です/新宿店オープン
第四章 書店員になった理由

「このごろ保守的な本が多くて・・・・・・思想や歴史の新刊がそんな本ばっかりなんです。もっと怖いことに教育の本にもそんな波が、教育は子供に直接影響がありますから、心配です。そんな本を棚に並べ続けていると、いつの間にか棚から保守の匂いが、それが私には気になって・・・・・・」と彼女は続ける。「最近『歴史洗脳を解く!』(略)が出て、なんだか気が進まなくて、でも売らないわけにもいかなくて、それで目立たないように棚に一冊入れるんですけれど、これが売れ行きがよくて。本当に売れるときはどこにおいても、一冊だけでもお客さんは見つけます(略)『新しい歴史教科書』に反対でも賛成でも、私がどういう立場でも、両側の本がきちんと並んでいればそれがいい・・・・・・って思うんです、でも実際に売れる本は保守的な本だったりして・・・・・・」彼女の目は、いっそ「歪曲された歴史認識に基づく記述・絶対拒否」という立場で本を売ったら、もしくは売らなかったら、どんなに楽だろう、と語っている。
(略)その目はさらに「書店に特定の本を売る場合の責任はあるのだろうか」と語っている。

お客さんが帰ったあと、社員が「ああ、怖かった」と震えた。別に何が起こったわけでもないのだが、雰囲気が怖い、とその社員は言う。書名欄を覗いたら『マンガ嫌韓流』と記入されていた。(略)
「何、この本」と聞いたら、「今売れているんです」そうですか、何だか不穏なタイトル。「一体どういう本なの」と聞いたら、「読んだら、きっと小林よしのりもかわいい、と思いますよ」と返ってきた。へえ、そんな本を売っているんだ。初回の二〇冊はあっという間に売れたそうだ。「でもコミックの担当者は、マンガのレベルが低いので、売り場に置きたくない、って、それで客注対応のみみたいです。結構殺到しているようです。

文芸書や人文書、さらに芸術書の購買客には本好きが多く、ここでの評判が全体のステータスを上げる、というリブロの呪縛から逃れていなかったのだ。ある意味では間違えてはいないのだが、私は理工書と社会科学書の集積がどんな力を持つか知らなかったのだ。

 

どうやら矢寺の戦略は、専門性が高すぎて一般に流通しない本を取り込むことにあるようだ。「必ずマーケットはあります。どうしてかというと、理工書は専門分野のみで流通している実務書が非常に多くて、その情報を集めて本の仕入れをすれば、お客さんは来てくれるから」「どうやってその情報を集めるの」「お客さんが教えてくれます。私は、書店員は謙虚であれ、と教えられました。お客さんのほうが専門家だと。お客さんは専門性の高い特殊な本を私たちに問い合わせてくれます。だから、必死でお客さんから教えてもらいます。取次を通さない本の版元を教えてもらって、いろんな本の情報を仕入れました。今の棚はお客様が作った棚ともいえる、と思います(略)」



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目次
座談会 歴史研究の方法と聞き取りの方法 本多勝一を囲んで  本多勝一笠原十九司,鈴木良,吉沢南
歴史研究にとっての聞き取りの方法 鈴木良
日本近現代史とオーラル・ヒストリー 兵士の戦争体験を中心として 吉沢南
歴史学研究と口述記録  笠原十九司
みがかれた証言、事実の説得力  本多勝一,吉沢南
夏淑琴さんの体験 少女輪姦殺害の被害者

鈴木 本多さんは『ルポルタージュの方法』(朝日新聞社<文庫>、一九八三年)の最後のところで、差別とか弱い者いじめの現場を見て、うちふるえる心が無いようなルポはダメだという話をされている。私はこれが歴史を勉強するものが本多さんのお仕事自体から学ばなければならない一番大事なことではないかと思っています。
 私たちも近代史なり現代史なりを勉強するいちばんの出発点には、だれでもそういうのがあったと思うんですね。ところが、いつのまにかそこが失われている。

本多 (略)だからジャーナリストとして、もしほんとうに「人民のために」報道しようと思ったら、やはり、いっさい拘束されないで、ほんとうのことを書くのが結局一番いいのではないかと、いろいろな取材体験から言えると思うのです。

本多 (略)私にとっての技術的な意味での聞き書きは、基本的に「風景を再現する」ということなのです。(略)あらゆる歴史的事実は風景から成り立っている、と。かつては消えてしまった風景ですけど。そこで聞き書きの方法ですが、ある事件、例えば平頂山事件なら平頂山事件があったとすると、そういう「風景」が展開されていたわけですね。それを再現するようにして埋めていくわけです。(略)
 例えば、虐殺の現場があるとしましょう。もし現場が平頂山事件なら、戸外ですから、空があるわけですね。そうすると、空はそのとき、晴れていたか、曇っていたか、雨が降っていたかということも聞いていかなければ、風景の「絵」として空に色がぬれないわけです。どういうふうに埋めてゆくかというと、風景の中に欠けている部分が無いようにしてゆく。(略)
 そのためには、最初からゼロではできません、どこかに核なりとっかかりがないと。ここに地平線があって、ここには家があって、当人はどこにいて――そのくらいはないと、あとどこが欠けているのかわからない。最初から天気のことなど聞かないで、まず向こうが言いたいことを全部言わせて聞きます。
(略)
 いや、証言者には、もう最初から絵があるのですよ。つまりそのときの事件の風景が当然ながら頭に焼きついている。しかし、それを表現できないだけなんですよね。筋は言うけれども、それはまず自分の表現できる範囲内の部分だけを言うんです。(略)だから聞き手がなんとかそれに近づく努力をするしかないのです。

 

本多 (略)しかしこちらが正しかったら、つまり事実が正確だったら、いくら相手が多数でも戦端を開かざるをえなくなりますからね。多数であるほど闘志がわくし、新聞記者をやっていても、みんなが認めていることを再確認したところでちっともおもしろくないでしょう(笑)基本的に「論理とは事実なり」と私は思っているのです。

つまり、「天皇の軍隊」という硬直したイデオロギー的枠組みの中で兵士を戦わせたことによって天皇制権力は、皮肉にも彼らの戦士としてのアイデンティティのある部分を、とくに一般国民との間の精神的紐帯を確実に破壊したのである。(吉沢南)

 もう一つのバイアスは彼らが自己の戦争・戦闘体験に正の意味づけを与えたいという強い衝動を持っていることである。兵士の意識の次元においても正当化する論拠の乏しい戦争であるだけに、それは多くの場合、戦時下における自分の生き方の「純粋さ」や「ひたむきさ」を強調する論理となって現れる。(吉沢南)

南京で拝見した本多勝一氏の聞き取りは「風景の復元」の方法によって口述史料の矛盾を発見し、再質問,再々質問によってそれを訂正・修正したり、それらを確認するなかでさらに新たな事実を聞き出している。つまり、聞き取りの作業中に口述史料の批判を行い(口述者の批判にならないところも本多氏の力量)、「事実の復元」に迫る確実な証言を収集する努力をしているのである。
 南京事件の体験者から最初に私たち歴史研究者が聞き取りを行い、あとで本多氏が同一の証言者からじっくり聞き取ったことがあった。そのとき、私たちが聞き出した「目撃した虐殺現場」が、本多氏の聞き取りによって、「目撃したのではなく、人から聞いた話」に訂正されたことがある。本多氏の「原風景の再現」による史料批判によって、証言者の位置からは虐殺現場が見えない事実を指摘して、証言者にも確認させたのである。(笠原十九司

 反右派闘争、文化大革命、そして最近の「ブルジョア的自由化反対闘争」にいたるまで、めまぐるしく変転する党や国家の「革命政策」に中国民衆は翻弄され、多大な犠牲を強いられてきた。この間、国民が身をもって学んだ知恵は文字資料を残さないことだったに違いない。文字資料は「革命政策」が変化すれば、いつでも「反革命思想」の証拠資料とされる危険性を持っていた。(笠原十九司

字幕の中に人生 (白水Uブックス―エッセイの小径)

字幕の中に人生 (白水Uブックス―エッセイの小径)

★★★★☆

目次
第一章 映画字幕というもの
第二章 字幕翻訳をめざすまで
第三章 字幕という日本語
第四章 あの映画 このせりふ

 (前略)直訳すれば「彼のやり方は不健全になった」で、字幕には「彼の行動が異常になった」と出る。立花氏はunsoundは「異常」ではなく、この作品が正しく理解さえないのは字幕にも一因がある、と指摘した。
 これに対して清水先生は「日本映画ペンクラブ会報」に、つぎのような反論文を載せた。
「英文和訳なら『彼の方法は不健全である』と訳しても合格点をもらえるだろう。スーパー字幕ではそうはいかない。スーパー字幕は一瞬のうちに消える。すぐ次の字幕が現れる。読んで考えているひまはない。字幕は見ただけでぱっと頭に入るのがいちばんよい。このせりふの場合、私の字幕づくりの経験からいって、『彼の方法は不健全である』ではとまどう観客が多く、『行動が異常だ』がはるかに適切なスーパーなのである。こうしるしても立花君はおそらくなっとくしないであろう。なっとくできないのがあたりまえで、スーパー字幕が映画という商品に対してどんな位置にあるかがはっきりのみこめていなくてはわかるはずがない。スーパー字幕はそれほど奇妙なものである」

”I shouldn`t drink it. It makes me acid."(私はこれ〈酒〉を飲んではいけない。これは私をacidにするからね)
 acidは「酸性」の意味と同時に「不機嫌」「気難しい」の意味もある。翻訳者を悩ますダブル・ミーニングのせりふだ。
 それが「今夜の酒は荒れそうだ」の原文だった。言いえて妙な翻訳ではないか。(略)
 今や古典となった『第三の男』は、その後も何人かの翻訳者が字幕を付けているが、私の観るかぎり、このせりふは「今夜の酒は荒れそうだ」になっている。これ以上うまい訳はないと、みな脱帽しているのだろう。

 『フルメタル・ジャケット』では(略)あきれるほど卑猥でカラフルな侮蔑語やフレーズが機関銃のような早口で乱射される。監督はこれをすべて忠実に字幕にのせろと要求した。とても読みきれるものではない。画面の文字をひたすら追い、耳なれない表現にとまどう観客に、映画のほかの部分を楽しむ余裕がはたしてあるだろうか。(略)
 私は一観客として、せりふ以外の部分もきちんととらえたい。耳で音楽も追いたい。盛り込まれた要素を一瞬のうちにあれこれ選択し、いろいろ楽しむ余裕をもちたい。
 そもそもフィルム・メーカーは、自分の映画が字幕で読まれる場合のことを考えて映画を撮ってはいない。その言語を理解する観客が百パーセントの意識を投入して楽しむことを考えてつくられている。「字幕を読む」という行為は、そこに割りこんでくるまったく余分な作業なのである。
 映画をトータルに楽しむことを困難にするような字幕のつけかたに、私は賛成ではない。
(略)
 原田さんはキューブリック監督の要求どおりに翻訳をしても字幕は読めると考えている。シナリオがすでにしっかり頭に入っていて、二度も三度も見返していれば、むろん問題はない。だが入場料を払って映画館にくる観客は、まったくの白紙状態で字幕を読むのである。ややこしい文章だと、理解するのに翻訳した人間の二倍、あるいは三倍の時間がかかる。そのあと、映画を映画として楽しむ余裕がどれだけ残されるだろうか。
「フィルム・メーカーが心血を注いだシナリオの言葉は一語たりとも切るべきではない。読みきれなければ二度でも三度でも観ればよいのだ」と言った映画評論家もいる。評論家は二度でも三度でもタダで試写を観られるだろう。千数百円という安くない入場料を払い、二時間余の娯楽を求めて映画館にくる一般観客は、どうなるのか。腹を立てている私に、清水俊二先生は一刀両断、「映画は評論家のためにつくられているのではない」と言われた。

 かたや練りに練ったシナリオのせりふがあり、かたや観客の映画鑑賞の邪魔にならない程度の字数がある。その中間にはかならずどこかに、限りなく原文に近く、しかも字幕として成り立つ日本語があるはずである。細かい細かい線のうえに、その線を綱渡りのようにたどってゆく努力が、字幕づくりに基本である。
 映画はすばらしい芸術であるが、同時に「一個いくら」で売られる商品でもある。映画に関わる者はその両面を見ていなくてはならない。字幕をつくる者もその例外であるはずがない。

 リチャード・ギアが日本での体験を、こう友人に話しているのを聞いたこともある。
「日本のジャーナリストは真面目なんだよ。冗談を言っても少しも笑わずにメモをとっているから、『今のはジョークです』と付け加えたんだ。そうしたら『なるほど』と真面目にうなずいて、それをまたメモってた!」

 「シー・ブリーズ」のあの香り、また「シー・ブリーズ」をつける男のイメージを知っている人には、たしかに許せない字幕だろう。だが『E・T・』からすでに十年たったいまでも、私はたぶん「オーデコロン」と字幕をつけるだろう。道行く人を十人とめて尋ねても「シー・ブリーズ」を知っている人は、現在でも二人以上いるとは思えないからだ。


飛竜伝 宋の太祖 趙匡胤

飛竜伝 宋の太祖 趙匡胤

★★★☆☆

 誓って、跪拝した。
 北漢を滅ぼし、契丹を追い払い、宋の天下を磐石のものとする。そして、産業を発展させ、文化を豊かにして、開封に世界一の繁栄をもたらす。(略)
 誰にも、邪魔させない。
 もういちどだけ、亡き兄上に目をやって、立ち上がった。
 予こそが、兄上に認められた後継者である。