『南極大陸』夢と発展と無残な結果


 実は私、南極って大好きなんですよ。ついでに言うと、北極も好きですし沙漠も好きです。沙漠だったらやっぱりアラビア半島南部のルブアルハーリー(空白の四角地帯)が最高ですかね。とにかく極地好きなんです。いや、「極地モノ」が大好きなんです、実際に行きたいとは思いません。

 そういうわけで「南極」と名のつく作品はわざわざ映画館で見ることも多い。アメリカ版「南極物語」や題名忘れたけど南極舞台にしたドキュメントリー映画やうっかり極地探検モノだと思っていた韓国映画が実はホラー映画でホラーだめだから上映中ずっと目つぶっていた「南極日記」とか・・・・・・。
 肝心の「南極物語」は実は映画よりもそれを元にした漫画の方が印象深い。小学校の頃、ボロボロになるまで何十回も読んだ。プロジェクトXの第一次南極越冬隊の回もばっちりチェックした。

 で、普段あまりTVドラマ見ないんだけど、「南極大陸」だけは楽しみに見ている・・・・・・ええ、ロケ地が南極じゃなくて北海道だということはわかっているんですけどね。
 視聴率の問題でキムタクが叩かれているが、私が見た感じ彼の演技は特別良いというわけではないけど、そこまで悪いということはないと思う。むしろ問題はシナリオにあると思う。今回も犬たち南極置き去りで(言っては悪いが)見せ場の回だというのにどうも構成がいまいち。最後にリキの首輪が抜けたシーンは最高だったけどね。


 さて、ここからが本題。
 今回でとうとう15匹の犬たちが南極に置き去りにされてしまったわけだけど・・・・・・あの犬たちを置き去りにした「もの」とはなんであったか考えてみたい。
 最初に言っておくと、私は史実の第一次越冬隊員を非難する気は毛頭ない。犬たちを置き去りにしたのは第二次越冬隊が基地に辿りつけないというのが想定外だったわけだし、その後も天候&燃料の問題でどうしても救助にいけなかったというのは少し調べればわかることである。
 「南極大陸」7話でもキムタク演じる主役の倉持ら越冬隊員の悲痛さと鎖に繋がれたまま置き去りにされる犬たちの悲哀があいまって視聴者を号泣させる。私も見る前から泣いてたよ!

 しかし、(映画の方はもう記憶がおぼろげなので触れないが)この「南極大陸」を最初から見ていて思ったことがある。犬たちが置き去りになったのは直接的には南極と言う未知の世界の自然の驚異ゆえと言えるが、現代の視点から見れば別の見方も可能だろう。


 「南極大陸」では南極観測に行くことは「日本の夢であり希望」なのだと語られていた。それは敗戦で意気消沈していた日本国民を「元気づける」物語でもあった(ちなみにそれは不況や地震などで不安と閉塞状況に陥っている現在の日本国民を励ます、というメタメッセージでもあったと見ていいだろう)。
 主人公らは国際会議の場や観測場所の割り当てで敗戦国として屈辱的な扱いを受けたおかげでかえって「日本だってやれる」と奮起する、南極観測には「自立した日本を世界に示す」という目的が付加されている。さらに反対を押し切って「ここで越冬しなかったら日本はまた世界に遅れをとる」と越冬を断行しようとするのである。
 ここで「日本を見下す諸外国」や「頭の固い官僚」らが南極観測事業の障害として立ちはだかるが、「国民の熱狂的な応援」というものを得て南極観測が実現する。日本を離れる1話のラストで多くの国民の歓呼と日の丸に送られて出発する隊員たちは敬礼でもって彼らに応える。


 「南極大陸」でさかんに語られる国民の日本国の「夢」「希望」・・・・・・おそらくそれは当時実際にそんな雰囲気だったのだろう、と思う。確かプロジェクトXでも南極観測に国民が「夢や希望」を託したことや敗戦国として諸外国に見下される悔しさが語らえていた。
 そこで語られる「夢や希望」とはつまり「復興」「自立」「発展」だと言ってよいだろう。具体的には「敗戦で負った傷やコンプレックスを払拭して自立した国→一等国になりたい」という日本人の願いであったと言っていい。だからこそ主人公らはあんなにも諸外国から遅れを取ることを恐れ、南極観測や越冬を断行したのである。
 
 そして確かにこの時代以降、日本は急速に発展し経済大国へと成長していくのである。「南極大陸」における南極観測とは日本人の「発展したい、侮られたくない、元気になりたい」という願いが具現化したものであるのと同時に、これから日本が急速に復興・成長していくことの象徴でもあった、と見てもいいだろ。
 ・・・・・・そしてそんな願いの果てに、犬たちを置き去りにする、という事態が起きたのである。


 南極観測を「日本人の夢と希望」が託されたもの、「復興・成長」の始まりの象徴だと見ると、その結果犬たちを置き去りにしたことはなかなか示唆に富んでいる。
 すなわち日本は高度成長と経済大国の道を歩む中で自然を破壊し公害問題を引き起こし、また多くの国民が会社の歯車と化していった。それは経済成長の中で多くの国民が何らかの形で犠牲となった、ということであり、とりわけ弱い立場の者たちが多く犠牲になった。ここでも成長の陰で弱者が犠牲になるという構図は、人間に従って犠牲となる犬たちの姿と重なる。福島の原発の問題も沖縄の基地の問題も日本全体の経済大国化や「安全」のため一部地域が犠牲にされてきたという側面がある(沖縄の基地問題に関していえば、日本は防衛を米軍に肩代わりさせることで経済発展に集中できたという見方があり、その結果沖縄は基地の島として米軍に差し出され続けた。この最初の南極観測の時代、まだ沖縄は日本ではなかったこともいろいろ示唆的だ)。
 いわば南極に取り残された犬たちは、これからの経済成長の中で犠牲になる者たちの先駆的存在であった、と考えることもできる。私たちは置き去りにされる彼らの姿に、日本の「夢と希望=復興・成長・一等国化」とはなんであったかを見るべきだったのかもしれない。


 もちろんこのような考え方は後智恵ではある。
 しかし2011年のドラマなのだし、歴史を多面的または批判的に見直す試みをしてもいいのではないかと思う。
 しかし現在のところそのような試みは見られない。犬たちを置き去りにせざるを得なかった「悲劇の物語」と日本の夢が託された南極観測およびそれにかけた男たちの情熱(大国化への欲望)という「希望の物語」は現段階ではリンクしているようには思えない。むしろ後者はあくまで「希望の物語」としてラストまで無傷のままで流れていきそうな気配である。

 犬たちを置き去りにしたことで第一次越冬隊員は国民の轟々たる非難にさらされる。ドラマの作りとしては、越冬隊員たちこそが一番つらいのに無理解な国民の非難にさらされて可哀そう、という展開になりそうな気配だ。
 しかし、その国民たちもそのような事態が起きるまで南極観測と越冬隊員に夢を託し、日の丸を振って熱狂的に送り出した(出征兵士を送るみたいに)のではなかったのか? 「隊員の苦悩を察しない無理解な国民」という図だけでなく、「自らの責任にさえ無自覚で一方的に越冬隊員を非難する国民」という視点も導入すれば話はより深くなっただろう。

 もちろん「発展の夢を見た」→「犬たちが犠牲になった」とあまりに因果関係をはっきりしすぎるのはドラマとしてよくない。それどころかそういう描き方もまた歴史の単純化であろう。そうではなくて、二つの物語をさりげなくリンクさせながら、視聴者に「南極観測の夢が結果として何を引き起こしたか」さらには「日本の成長の陰で何を犠牲にしてきたか」をさりげなく思い起こさせるような処理をしていればすばらしいと思う。

 また、結果的に犬たちを犠牲にしたからといって「復興・成長・大国化」を単純な「悪」として描くことも賛成しない。そうではなくてあの時主人公や国民が南極観測に託した「夢と希望」それ自体はまぎれもなく「良きものであった」、それでもなおあのような悲劇が引き起こされた、と描く方が歴史に多面性とか「業」のようなものが表現できたと思う。
 そのように希望が絶望を引き起こすことがありうるこそ、逆に絶望が希望に転化する可能性も生まれるのではないだろうか。

 なんにしろ7話の段階で「犬たちの悲劇の物語」と日本の夢が託された男たちの「希望の物語」はまったく別個の物語とした語られている。今後、その二つの相反する物語がリンクし日本現代史を批判的に見直すような深いドラマとなるか、それとも「人間と犬の感動の物語」に始終するか・・・・・・後者の方になりそうな気配濃厚だけど。
 だが私の中ではもう置き去りにされた犬たちは、今後の経済成長の中で多くの人々が「置き去り」にされることを暗示する存在に見えてしかたないのである。