大学と道路を占領する米軍(制圧編)

 えっと、前回の記事は2年前に書きました(大汗)。もうこのシリーズ(?)は1年に1度、8月13日前に書いていけばいいんじゃない、って感じです。

 で、前回、米軍がいかに私立大学の敷地内に侵入していったかについては、下記アドレスをご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20100813/1281728234


 参考本はいつも通りのこれ。

墜―沖縄・大学占領の一週間

墜―沖縄・大学占領の一週間



黄色いテープ


 消火作業が終わると、消防士たちは米軍によって早々に現場を追い出された。消防士の義務である現場検証を訴えても聞き入れられなかった。


 この頃には事故現場周辺に多くの住民・学生が集まってきていたが、米兵たちはその目の前で『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープを事故現場周辺に張り出し、勝手に現場を封鎖していった。
 そして住民や学生はもちろん、警察,消防士,マスコミ,大学関係者らもそのテープの外に追い出したのである。


 米軍がテープを張った場所は、当初は事故機本体および近くの生活道路などに墜落した部品の周辺であった。しかし、その封鎖範囲はだんだんと広がっていった。


 まず事故機本体周辺の封鎖状況に関して。
 沖縄国際大学1号館前の緑地に落ちたが、米軍はその周辺のみならず隣接する3号館前の道路と1号館左隣の職員駐車場にまで及び*1、さらに14日には大学の正門には大学の守衛に代わって米兵が立つようにまでなった。
 また13日夕方には、米軍は1号館と3号館の間にある広場にテントや簡易トイレを持ち込んで宿営を始めたため、この広場も立ち入り禁止となった。
 これによって沖国大敷地内では1号館・3号館・広場一帯がすべて占領されてしまったのである。


 さらに米軍は1号館前は事故機本体が堕ちている緑地とフェンスを隔てた市道の歩道・車道を200メートルにわたって黄色いテープで封鎖してしまったのである。
 距離は200メートルほどだが、一本道をこのように封鎖してしまったらこの市道は事実上通行止めとなる。また、この道沿いには四軒の弁当屋や食堂などがあったが、まとめて封鎖地域に入ってしまった。後にこの店の店主や従業員は店に出入りすることは出来るようになったが、客が入ってこれないので封鎖が解けるまで営業はできなくなった。


 ヘリが1号館の壁に接触した時、六枚あるプロペラがはじけ飛んで住宅街を越え、市道の横にある志真志生活道路に落ちたことは先に述べた。
 マンション前の道路に落ちたその二メートルのプロペラの周りには住民や子どもたちが集まっていたが、やがて米兵がこの生活道路にもやって来て人々をどかした。
 その時の実にシュールな光景の写真が下記のブログにアップされているのでぜひ見てほしい。
http://plaza.rakuten.co.jp/uchinashikaiya/diary/200408130000/


 やがてこのプロペラの周りにも黄色いテープは張り巡らされ、しかもそれは部品の周りだけでなく生活道路全体を封鎖しようというものだった。

 そこにペプシコーラを持った米兵たちがやってきて人々をどかし、『the scene of the crime(犯行現場)』と書いた黄色いテープを部品の四方に張り巡らせた。確かにそこは<犯行現場>だが、奇妙なことに犯行を行った側が現場と証拠物を管理しはじめたのである。しかも最初は部品の周りだけを囲っていたのにだんだんと範囲を広げ始め、最後には生活道路全体を封鎖してしまおうとした。
 ちょうどそこに緊急抗議行動を終えた平和団体の人たちが通りかかった。「住民のみなさん、兵隊が民間地域を占拠しています!」「道路を解放しろ!」彼らはすぐさま激しく抗議し、シュプレヒコールを繰り返して米兵の封鎖をやめさせた。(『墜』P40)


 この抗議活動のおかげで生活道路は封鎖を免れたが、大学敷地内とその前の市道は完全に占拠されてしまった。
 15時前に現場に到着した宜野湾市長も立ち入りを禁止されたが、市長は強く抗議したため一時的に中に入ることが出来た。しかし沖縄国際大学の学長はまったく中に入れないままだった。




ガードマン


 この米軍の「現場制圧」に関して特異な働きをしたのが沖縄県警であった。
 

 後の報道では、沖縄県警もまた本来彼らが検証すべき現場から排除された哀れな存在であり、米軍が県警まで排除したのは横暴であり主権侵害であるという語られ方もされた。
 しかし、事故当時には沖縄県警もまたこの米軍の現場封鎖に協力した側面もあったのだ。


 現場にやって来た沖縄の一般県警や機動隊員は現場を封鎖する米軍に抗議するどころか、黄色いテープの外側で市民が近づかないようにしていた。そのまるで米軍の「ガードマン」のような姿を見た市民からは当然ながら疑問の声が上がった。

 それらはおおむね整然と行われ、やがて一つの秩序ができた。黄色いテープの外側、事故現場から最も離れた位置に市民や学生が。封鎖区域の境界であるテープに沿うように一般の警官が。テープの内側、事故機近くの市道には、突然やってきた機動隊が。そして大学構内の事故機周辺には米兵が。「棲み分け」のようにそれぞれの場所に落ち着いていったのだった。
「守るのはこっちなのにどうしてあっちを守るのか」
 カメラを持って駆けつけた先の女性は、まるで警察が米兵を守っているように見えたと話す。(『墜』P31)


 実はこのように沖縄の警察が米軍の現場封鎖を手伝う光景は、1959年の死者17人(児童11人)を出した宮森小学校米軍ジェット機墜落事件の際にも見られた。

警官 彼らの指示ですから
―彼らというと?
警官 …………
―写真くらい撮らせたっていいでしょう。
警官 いや駄目です。中に入っては、私はただ…………
―ただ、何ですか? あなたはいったい、どこの人間ですか?*2


 現場の警察は個人的には米軍の「ガードマン」化したことに忸怩たる思いもあっただろうが、「沖縄県警が現場検証できない」という側面だけ取り上げて、それを「日本の主権が侵された」というナショナリズム的な言説に回収してしまうことには注意が必要だろう。
 ましてや以下のように米軍のみならず沖縄県警によってもマスコミへの取材妨害が行われたことを考えればなおさらである。



潜入1号館!


 現場に来た報道機関のほぼすべてが、米軍または沖縄県警からさえも何らかの取材妨害を受けたという。

「米兵は写真を一番嫌がった。異様なほどの反発だった」
 およそカメラの形をしたものを持つ者のところには、米兵たちが押し寄せてきた。彼らは口々に「No Picture」「No Camera」と怒鳴り散らしながら、手や軍帽でカメラのレンズを塞ぎ、あるいは押さえつけようとした。それこそ一人も逃がさない一枚も許さない勢いだ。
 ある地元TVのカメラは、レポーターが横を向いた一瞬の間に米兵の軍帽で覆われてしまった。「なぜカメラを隠すんだ。何の権利があって取材を妨害するんだ!」レポーターが抗議し、険悪な雰囲気に危ないと思ったのか、一人の男子学生がとっさに両者の間に入ってレポーターを守った。
 また別の地元TVのカメラマンが黄色いテープをくぐって撮影しようとしたところ、沖縄県警の機動隊が現れ、一人がカメラを塞ぎ、もう一人がカメラマンを押さえつけた。「ルールを守れ」と、機動隊員の一人が言ったとたん「何がルールだ!」と見物人から声があがった。(『墜』P34〜P35)


 現場を撮影しようとしたのは、マスコミ関係者だけではなかった。学生や付近の住民がカメラを持って駆けつけていた。中には墜落の瞬間を目撃し、そのままちょうど近くにあったコンビニに駆け込んでインスタントカメラを購入し、貴重な墜落直後の写真を撮った学生もいた。これらの行為は野次馬根性というより、この事故を記録に残さなければいけない、という確信によるものだったのだろう。
 しかし、米軍はこれら一般住民の撮影も徹底的に邪魔をし、中には米兵に囲まれて怖い思いをした人もいた。


 マスコミも含めてこれら撮影者たちはほとんどが民間地、しかも黄色いテープを超えずに撮影していたにも関わらず妨害にあった。
 しかし、どうせテープの外でも妨害されるのだから、と思ったのかどうか知らないが、地元TV局の一つは果敢にも米軍の目を盗み1号館へ入り込んで撮影を行ったのである。


 そのTV局のレポーターとカメラマンは火災報知機が鳴り響く1号館の会計科(窓の外50センチのところにヘリが墜落していた)や崩れ落ちた外階段を撮影したが、中庭にいる米兵たちに見つかり出て行けと怒鳴られた。
 仕方なく外に出ようとすると二人は米兵に止められ、撮影したテープを渡すよう迫られた。

 レポーターはここは自分が食い止めるからテープを持って外へ出るようカメラマンの男に言った。そしてレポーターが米兵と押し問答をしているすきに、カメラマンはテープを持って外へ向かった。


「カメラは盗られてもテープは渡すな」
 校舎の近くにいた市民の一人が、中から聞こえてくる声に気づいた。
「ばっちり撮ってきたよ」
 多くの住民の目や他局のカメラがある中に出てきて安心したのだろう。カメラマンは近くにいた市民や学生に満面の笑顔を向ける。だがこの時、校舎から一人の米兵が彼を追って出てきた。気がついたカメラマンは大慌てで逃げ出し、それを追って米兵も走り出した。どうやら米兵がマスコミの取材テープか何かを奪おうとしているらしい。事態を察知したその住民は、とっさに叫んだ。
「あの米兵を捕まえろ!」
 その声にはじかれたように、数名の学生と叫んだ本人が米兵を追って走り出す。
 カメラマンはすぐに米兵に捕まってしまった。だが間髪を入れず、追ってきた他の市民や学生らしい和解男性たちが、その米兵に飛び掛って取り押さえた。カメラマンはその隙に逃げ、取材テープは守られた。(『墜』P42〜P44)


 この一コマは米軍が占領を進めていく中にあって最も痛快な一コマであろう。唯一黄色いテープに恐れをなさず、1号館への潜入を試みた地元TV局の行為も、とっさに取材テープが奪われることを察知しそれを守るため米兵に向かっていった人々の行為もとても勇気ある行動だったと思う。誰も入れなかった1号館の様子を撮影した取材テープ自体も貴重だが、さらに貴重なのは彼らのような行動そのものだろう。



 残念ながら全体的に見て米兵の占領はつつがなく進行し、日が暮れる頃には宿営地まで設置され、その占領が解除されるには1週間もかかった。
 しかし、その中にあってもこのような人々や、あるいは生活道路の封鎖をやめさせた人々の抵抗があったことは記憶に留めておくべきであろう。

*1:3号館前道路が封鎖されたのは13日椎深夜か14日早朝と思われる

*2:中里友豪著「恐怖と血の代償」より。これは事故直後の宮森小学校を取材した著者の渾身のルポである。現在は沖縄タイムス社『思念の砂丘』に収録されている。詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/poppen38/20090630/1246391206参照