基地だけでなく「基地問題の解決」まで押しつけられる


 この問題についてはじっくり書きたかったけど、もうすぐネットが使えなくなる&名護市長選が近づいているので簡単に一言。


 辺野古に新しい米軍基地を作るかどうか(一般的には「普天間基地移設または代替施設の建設とか言われているが、それは虚言である)が、日本では大きな問題となっており、今度の名護市長選も注目されているという。
 
 鳩山政権は名護市長選の行方を注視しているというし、この市長選の結果はあたかも「地元」の意思表示であるという雰囲気がある。
 沖縄にいないのでいまいちよくわからないが、今までのパターンからして想像できる。「地元」におまえたちはいったいどうしたいのか、と迫り、そうして言わせたこと(この場合選挙結果)を問題を考えるための重要な要素、それもしばしば最終判断のための要素にしてしまう傾向。「地元の意思の尊重」を装って、「地元」に基地問題の解決と言う重責を転化させようといううんざりするような(意識的とまでは言わないが)意図が多くの日本人の頭に今回もあるに違いない。

 名護市はすでに何度もそのようなことに翻弄されてきた。選挙のたびに、それが「市長選挙」であるにも関わらず、米軍基地をどうするかはっきりしろ、と無言の圧力を加えられ、賛成か反対かでもめ、人間関係をずたずたにされてきた。
 本が手元にないので正確ではないが、ある大学生の報告によれば、辺野古では狭すぎる人間関係の中で人々は基地問題について「語らないこと」を選んだ、というのを読んだことがあり、心に残っている。
 確かに私が辺野古を訪れた時に感じたのも、賛成か反対か議論する雰囲気ではすでになく、ただひたすら沈黙があったのみだ。
 またある時、若者たちによって辺野古でピースコンサートが開かれ、そこに出演した辺野古出身の歌手が出演までの苦労を語った。当人はぜひ出演したかったのだが、そのため親戚(沖縄の親戚は数が非常に多い)全員を説得してまわらなければならなかったという。つまりこの歌手の親戚は、このような催し(当然、基地問題にも触れられる)に親族が関わって欲しくなかったのだ。

 これら名護市や辺野古の人間関係の溝は、長い間、この小さな街の住民に「基地問題」という全国的どころか日米同盟にまで関わる大きな問題に対する意思決定が転化されてきたことが大きいと思う。
 引き受け先の「地元」の意志が尊重されなければならないのは当然だ。だが米軍基地問題がそもそも日本全体の問題であり、日米同盟の問題であるようなあまりに大きな問題を一市自治体に、そして過疎化の進む小さな集落(辺野古)に長い間過剰に押し付けすぎた。
 名護市民が自らの判断がそのような自分の街にとっても日本にとっても重要なことの決定に関わると圧力をかけられ続けてすでに十年以上、そのような判断を求められる市長選挙は今度で実に四回目である。

 そもそもその尊重されるべき「地元」の定義というのも怪しいものである。「地元」の範囲はだんだんと縮小されてきた。
 十年近く、辺野古新基地建設問題をそれなりに見てきたが、確か当初は「地元」というのは「沖縄県」のことであったと思う。(今ももちろん「沖縄県」の意志は議論に登っているが)それがいつのまにか「地元」というのは「名護市」を指すことが多くなり、最終的には建設地である「辺野古」が「地元」として限定される傾向になってきたように思う。
 これは「沖縄県民」全体あるいは過半数の同意を取り付けるのは難しいと考えれ、ならば「名護市民の意思」を「地元の意思」としようとし、さらに名護市民対象でも同意は難しいかったため、人口の少ない「辺野古」のみを「地元」に限定しようとした政府などのイメージ操作の結果ではないだろうか。

 だいたい自民党政権や基地容認派日本人など沖縄に基地を押し付けておきたい者は、県知事選にしろ名護市長選にしろ基地容認派首長が優勢な時は、「地元の意思の尊重」なるものを言い立てきた。
 しかし、思い出してみれば、1995年の少女暴行事件で沖縄の反基地運動が盛り上がった時には「日米同盟の問題に地方が口を出すな」「地域エゴ」とかいう言説がけっこう流れていたと思うけど? 今回も今までさんざん「地元の意志の尊重」とか言っていた連中が、もし反対派の候補者が当選した時に似たようなことを言い出しそうだ。


 繰り返すが、私は「地元(しかし「基地問題の地元とはどこだ?)の意思」がどうでもいいと言っているのではない。しかし日本国民はその美名の下、あまりに重いゲタを沖縄に預けすぎた。判断を迫られた住民がどういう苦悩を背負うのか考えず、その結果だけを「地元の意思」として横領してきた。すでに沖縄は米軍基地とその被害によって充分たいへんだと言うのに。
 米軍基地問題は「沖縄の問題」ではなく、「日本の問題」である。日本人一人一人が考えるべきことだ。「地元の意思」はそれなりに大事ではあるが、最後の判断は「地元」がどうしたいかではなく己がどうしたいかである。その結果、生じた責任も己が引き受けるものである。たとえ「地元の利益(と称されるもの」や「日米同盟」を損なうような判断であっても。
 そのような雰囲気が広がれば、沖縄県民、名護市民、辺野古住民にのしかかる無言の圧力も改善されるかもしれない。

 最後に一言。
「沖縄は反対ばかり言ってないで対案を考えろ」とか言う言説がある。
 ・・・・・・・なんでそんなことを沖縄が考えなくてはならないのか?
 日本が沖縄に基地を押し付けることは、言わば沖縄を踏みつけていることに例えられるだろう。であれば、
なぜ踏まれている側が踏んでいる者の足のどかし方まで考えてやらなければならないのか。
そんなものは踏んでいる側が自分で考えろ、という話である(しかしロクなことを考えてこないから、ただでさえ大変な沖縄がいろいろ言わなければならないのである)。日本は沖縄に甘えるのもいい加減にしたらどうか。



追記


 『子どもの本棚』という雑誌の8月号(7月14日発売)の『特集 今沖縄を考える』に「基地問題の地元はどこか?」というタイトルの原稿が掲載されます。


『子どもの本棚』HP
http://homepage3.nifty.com/kodomonohonken/


 この原稿は、この『基地だけでなく「基地問題の解決」まで押しつけられる』と同じ問題意識を持って書いたものであり、そのため主張や表現(言葉遣い)などの一部が重なっています。
 原稿のペンネームには「poppen38」とは違う名前を用いていますが、作者は同一人物です。



参考エントリー
http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20100120/1264063339