第3章「東アジア貿易圏の中の琉球」(1)

福州に行けるかどうかはちょっと微妙になってきました(泣)。でもいつかは行けると思うので引き続き勉強。

・・・ところで!
福州の「福州琉球館」って今では跡形もなくなっていて住宅地になっている、って聞いてましたが、なんだか一部史跡が残っていて福州市の保護文化遺産になっているみたいです! と言うか再建されたのかな? 知らんかった・・・って言うか沖縄でも知っている人あまりいないんじゃ・・・


以下、『琉球王国』第三章にまとめ(半分だけ)

1、大交易時代の到来

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鐘(あつ)め、大明を以って輔車となし、日域を以って唇歯となす。此の二つの中間に在りて湧出する蓬莱島なり。船楫を持って万国の津梁となし異産至宝は十方刹に充満せり

 尚泰久時代(1454〜1460)に首里城内に掛けられた「万国津梁の鐘」の鐘銘にはこのような文章が刻まれ、琉球の繁栄を謳いあげていた。「万国津梁」とは万国の架け橋の意味であり、その中で中国との関係を頬骨(「輔」)と歯牙の下骨(「車」)に、日本との関係は唇と歯の関係に例え、いずれも極めて密接な関係にあることを示している。

 琉球は、東南アジアに需要の多い中国青磁を主体に日本の刀子(武器)・扇子・銅などを、土産の硫黄・馬・螺殻・夏布・牛皮などとともに持ち込み、その対価として南海産物などを獲得した。東南アジアからは、蘇木・胡椒・織物・酒類象牙・錫などを運び出した。そのなかでもとくに染料の蘇木、香辛料の胡椒は中心的な商品で、この二つは南海貿易中、もっとも重要なものであった。

 マラッカのポルトガル人アルフォンソ・デ・アルプケルケとトメ・ピレスは、それぞれ琉球人を「ゴーレス」「レキオ人」と呼んで以下のような記録を残している。

かれらは勇敢にしてマラッカにおいておそれうやまわれていた。いずれの港においても、かれらはそのもたらす商品を、一時に取り出さず、少量づつ貿易する。またかれらは誠実を尚(たっと)び、偽言をゆるさない。マラッカにおいて商人にして不正の取引をなす者があれば、ただちにこれを捕らえた。いずれの国に対してもつねに取引を急ぎ、貿易が終われば、季節風に遅れないよう直ちに帰還し船を長く外国に留めない。かれらはマラッカに植民地を営まず、母国を長く離れることを好まない人種である。

 われわれの諸王国でミラノについて語るように、中国人やその他のすべての国民はレキオ人について語る。彼らは奴隷を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない、かれらはそれについて死を賭ける(中略)レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして、代金を受け取る際、もし人々がかれらを欺いたら、彼らは剣を手にして代金を受け取る。

 琉球の船は北東の季節風が最も卓越する11月に中国・東南アジアに向けて出航し、南西の季節風が吹く3月〜4月の間に帰国する。


2.朝鮮・日本との往来

 中華思想の元では、中国と冊封関係にある諸国同士は「敵礼」の関係、つまり互いに対等であることが求められた。各国同士が交わす外交文書も対等な相手用の外交文書である「咨文」が用いられた。このため小国の琉球も朝鮮のような大国と対等に扱われる条件が生まれた。しかし中国が目指した各国対等という礼的秩序は実現しなかった。

琉球と朝鮮
 琉球と朝鮮の往来は、1389年に中山王察度が高麗に礼物を献じ、倭寇に攫われた朝鮮人を送還したのがその始まりである。朝鮮との往来はほとんどが琉球からのもので、倭寇に攫われたり漂着したりした朝鮮人を送還し、礼物を献じて朝鮮国王から多くの回賜物を送られるような形態のものである。両国にとって互いは重要な交易相手と言うより、儀礼的な交隣関係の相手であった。
 琉球は朝鮮に対等な相手用の外交文書「咨文」を送っていたが、それに対する朝鮮の返書は書信の形をとった「書契」であった。朝鮮は琉球に対して意識的に対等の礼を拒んでいた。

琉球と日本
 日本の場合はさらに露骨であった。日本から琉球に送られた最古の文書は1414年に足利義持から琉球国王尚思紹に宛てたもので、その文書は日本国内で上意下達文書として用いられた御内書文書だと考えられている。国内向けと違うのは、年号が記載され、外交文書であることを示す「徳有隣」が押されていたことだった。この形式は以後も継承される。

 将軍が琉球国王を外国の王と認めながらも、一面では足利氏の家臣並みに意識していたことを示している。

 また琉球国王から幕府に送られた文書も、「国王」の称号は用いずに琉球固有の呼び方である「代主(よのかし)」*1が用いられ、東南アジア諸国への「咨文」とは明らかに異なっていた。

日本と朝鮮
 日本は明国宛の文書では、「日本国王」を名乗り「臣」を表明し、中国の年号を用いていた。しかし朝鮮に対しては「敵礼(対等)」の関係を示す「日本国王」の称号は用いず、年号も中国のものではなく干支か日本の年号を記して、対等の関係を拒んでいた。

 このように各国は中国の目指した「敵礼」とは別に、独自の外交方針を堅持していた。


 琉球は、主に中国の緞子や甘草、東南アジアの蘇木・胡椒・丹木・沈香・壇香などを日本に運んだ。中国・東南アジアの特産物は「舶来品」として貴族の間で需要が高く、特に東南アジアの染料・香料は非常な高価で売買された。
日本に来る琉球船は、博多を経由して神戸に至り商品を売るとともに明との朝貢貿易に必要な装飾用の刀剣類や扇・屏風を購入した。室町幕府は神戸に琉球奉行を設置して貿易の管理に当たらせ
琉球からの商品は堺商人などによって近畿地方にもたらされた。
 また当時の東南アジアでは中国の貨幣が広く流通し、琉球も東南アジア貿易を円滑に進めるため大量の永楽銭を入手しており、日本にももたらされた。

 また、京都五山系の禅僧を中心に多くの僧が琉球に入り、仏教を伝え寺を建立した。琉球への仏教の伝来は1270年頃、僧禅鑑が渡来したのが始まりといわれ、1368年には頼重上人が波之上護国寺を建て、察度王の祈願寺としている。本格的に仏教が広まるのは尚泰久(1454〜1460)の時代以降で、この頃渡来した京都五山の芥陰禅師は琉球と足利幕府との外交交渉にも大きな役割を果たした。
 15世紀以降には、多くの堺商人などが貿易のため那覇にやってきたが、当時の季節風を利用した航海では、帰国するために南よりの風を待たねばならぬため長期滞在が余儀なくされ、那覇には小規模な日本人街ができた。彼ら日本人商人たちの航海の安全を祈る「熊野権現」信仰との関係で、琉球にも熊野系神社が創立された。彼らはそのまま土着化する者もあり、琉球の士族の中には日本人の血を引くものも少なくない。

琉球の時代はこうした日本との間のモノ・ヒトの頻繁な往来によって「文化の日本化」が深まっていく時代でもあった。 


3、国際貿易結節点=那覇

 かつての那覇は現在とは違い、複数の河川が流れ込む河口の中州にあり、珊瑚礁も発達しない天然の良港であった。
 尚金福時代(1450〜1453)には、入り江に長虹堤という七つの橋をかけて首里とつなぎ、尚徳王(1461〜1469)の時代には、琉球−福建、琉球−東南アジア諸国琉球−博多−対馬−朝鮮、琉球−兵庫−堺などを結ぶ国際港として大きな発展を遂げた。

 日本や朝鮮の史料によれば、那覇港内の岩礁上には「宝庫」*2と呼ばれる海外貿易品の保管庫があり、また港内には交易品の公営取引所「国庫」があった。
 那覇港の北には「唐営」と呼ばれる場所があるが、これは洪武帝に下賜された福建人集団が住み着いた久米村のことである。しかしこの頃には、本国の海禁政策をかいくぐってやってきた中国人商人が多かった。王府は彼らを海外貿易のため積極的に利用した。「唐営」の中国人は琉球に住み着いても決して土着化することはなく、中国服を着、中国風の家に住み、椅子を使用するなど故国と同じ生活方式を維持していた。

 琉球では明の「王府」制度にならって、王を補佐し、王府の各職を統轄する王相(正二品)という官職が置かれていた。この役職には華僑が採用されることが多く、彼らは海外貿易だけでなく王権の存続にも関わるようになっていた。
 その代表的な人物が懐機である。懐機は首里城外に龍譚池を作り、また那覇港と首里を結ぶ長虹堤を建築している。また王を戴かないスマトラ南部のパレンパンとは、当地の華僑集団を介して、執政官同士の名において懐機が貿易や外交を展開した。


 以上、本文のまとめでした。
 それにしてもいつ読んでもポルトガル人が評するところの「例え全世界と引き換えでも同胞を売ることはない」っていう表現はすさまじいな。素直にかっこいい。
あと、中華思想のもう一つの側面、「中国の下で(大国小国を問わず)各国は平等」、とも言える思想は知らんかったな。ちょっと系統としては「神の下で万民は平等」のアジア版とも言える思想かな? 最も実際には各国間でそれがちっとも守られていなかったどころか、中国の遇し方も平等に扱っているとは言えない(明らかに朝鮮を重視している)。
 ただ後の章に、各国の使者が皇帝に謁見する際、まず朝鮮の使者に会うのだけど、次に琉球の使者に会うというのがある。これは琉球を重視していたというのもあるが、このような正式の場であえて小国を引き立ててやることで、大国が弱小国を侮らないように、という中国の意思表示でもあったのかもしれない。

*1:ここでいう「代」とは「代わりの」という意味ではなく、「時代の」という意味である

*2:後に御物城(オモノグスク)と呼ばれる