中国・広州旅行レポート

 せっかくなので中国・広州の旅行レポートでも。
 歴史的な名所もいろいろ見てきましたが、とりあえず愛/国/教/育/基/地近現代関係を中心に。


 以下、検索避けのため固有名詞の表記をわざとわかりづらくしていますが、ご了承ください。



黄/埔/軍/校。


 黄/埔<こうほ>軍/校(以下、コウホ軍校と表記)は、1924年、中国革命の父・孫/文によって創立された中国初の近代的士官学校
 1920年代当時、中/国/国/民/党の中/華/民/国/政/府は中国を代表する政府とはいえ、各地に割拠する軍閥に押され、中国南方の広東省省都は広州)一帯を支配するのみであった。孫/文は軍事行動を起して各地の軍閥を平定し、中国を統一することを目指したが、そのための革命軍の士官を育てるべく建てたのがこの軍校である。


孫文はこの軍校の校長に日本の士官学校で学んだ蒋/介/石を起用。またできたばかりの中/国/共/産/党と合作し(第/一/次/国/共/合/作)、ソ連から軍校創設のための資金や軍事顧問をゲットした。中/国/共/産/党も党の理論家やソ連軍事学校で学んできた党員を教官として派遣し、軍校の運営に協力する。その中心人物となったのが、若き日の周/恩/来である。
 軍校は、中国の思想を基盤としながらも、ソ連から資金や革命軍による政治教育の指導を受けつつ、軍事教育面では日本の士官学校のものを参考にした。と言うのも、国/民/党/側の教官の大半が、日本の士官学校出身者だったからである。*1
 

 そしてコウホの卒業生の多くが、国/民/党と共/産/党、それぞれの軍隊で高い地位についていく。特に蒋/介/石は校長として積極的に学生を取り込み、「コウホ系」と呼ばれる一種の学閥を結成した。彼の教え子が軍部の中枢を占めたことは、蒋/介/石が国/民/党のトップに立つうえで大きく貢献したことだろう。また、この「コウホ系」は国/民/党が台湾に撤退してからも長く台湾で政治的影響力を持ち続けた。
 そして周/恩/来もまた、蒋/介/石に負けぬ勢いで学生・教官を共/産/党に取り込んだ。彼が若くして共/産/党の指導者の一人になれたのも、紅/軍*2の中に確かな人脈をいていたことが大きい。中/華/人/民/共/和/国/建国後の50年代に解/放/軍の将軍たちの中で特に功績があった十人を元帥に叙した*3が、そのうち5人がコウホの卒業生または教官であった。*4
 なんにしろコウホでともに青春の時を過ごした卒業生たちは、国/共/内/戦によって戦場で殺しあうことになるという悲劇を迎えるわけであるが。

 
 ちなみにコウホ軍校は中国第三の大河・珠江<ジュコウ>の河の中にある六キロ四方ほどの島に建てられた。日本的感覚からすれば河の中に六キロ四方もの島があるってのが驚きである。昔は亜熱帯の森に囲まれた、たいへん美しい島だったそうだ。
 実は元の軍校の建物自体は、日中戦争の時、日本軍に徹底的に破壊されてしまっている。なので今ある建物は、観覧・展示用に90年代に資料を元にして忠実に再現したもの。そもそも清代に建てられた水軍の学校をそのまま転用したこともあって、前近代的な中国らしい情緒に溢れた建物は一見の価値あり。



以下写真。

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 コウホの卒業生で十/大/元/帥・徐/向/前の筆による記念碑。ちなみに後ろの黄色い建物は軍校ではなく、孫/文のコウホ島での家。



 これが軍校の正門。『陸軍軍官学校』と書かれている。門の両脇にあるのは衛兵所。周囲にある木は樹齢150年以上のガジュマル。日本軍の攻撃にも耐えたらしい。
 日曜日だったためか、参観客がたえることがなかった。なるべく顔が写っていないのを選んだけど・・・・・・。
 


 内部はこんな感じ。なかなか中国中国している。なごむ(軍校なのに!)。
 いわゆる四合院*5をいくつか組み合わせたような造りだった。二階建てで廊下が中庭に面している。



 学生たちの宿舎。
 こんなふうな4つ一組の寝台がひたすら何列も並んでいる。一部屋に50〜60台くらい。プライバシーも何もあったもんじゃない。広州は亜熱帯〜熱帯の間くらいの気候なのでたいへん蒸し暑い。そんな中20歳前後の男ばかりでこんな部屋に押し込められたんじゃ、いろんな意味でキツイんじゃなかろうか?
 また蒋/介/石校長は「整頓」「清潔」をものすごく重んじたので、布団をたたむ時は神経質なほど真四角にたたまないとものすごく怒られたらしい。



 教官たちの事務室の一つ。
 教室や学生用食堂も見たかったけど、公開されてなかった。以前行った人の話では、公開していたというのに。残念!



 展示されていた「中正剣」。
 卒業の時、学生たち一人一人に蒋/介/石校長が渡した短剣である。何故「中正剣」かと言えば、蒋/介/石の字*6が中正だから。・・・・・・ここは笑うところか?



 軍校の一番奥の棟。
 ・・・・・・実はコウホ島は一部が軍事地区で、軍校の一部も解放軍の軍人が使っているという話(真偽不明)を聞いていたのでそれかと思ったけど、どうやら違うらしい。
 軍校にパンフがあったのだが、どうも青少年教育の一環として希望する若者を集めて一週間ほど軍校で過ごさせ、簡単な軍事訓練も施すらしい。たぶんそれ。親が子どもを鍛え直すために応募するんだろうな、と思う。
 実際、軍服を着て軍校内でだらけている若者たちがいたけど、どうにも正規の訓練を受けた軍人には見えない。その後、彼らは集められ中庭を行進とかしていた。女性の参加者が多いのが印象的。





農/民/運/動/講/習/所


 農/民/運/動/講/習/所は、やはり中/華/民/国の中国統一事業のためには農民の協力・組織化が不可欠という認識の元作られた場所。
 別に実際の農民をここに集めて教育を施すという話ではなくて、党内のインテリや若手に農民運動を指導する方法を学ばせる場所・・・らしい(コウホについてはちょっと縁があっていろいろ調べたのだけど、講習所のことはよくわからない)。主に農民・農村の現状や農民運動の特性、農民の組織化の方法から軍事教育まで研究・教授していたのではないだろうか。
 当時は第一次国/共/合/作中だったので、毛/沢/東が講習所の所長を務めていた。当時はまだ軍校の周/恩/来よりも党内地位は低かった。


 軍校は清代の建物を利用していたが、この講習所は14世紀・宋代に建てられた孔子廟を利用している。これまた何とも独特の趣きがある建築だ。
 軍校は広州市の中心から離れた静かな河中島にあったが、ここは広州市のど真ん中。周りは喧騒に満ちと高層ビルも多いが、この講習所の古い門をくぐるとまるで別世界。古風で落ち着きある建物に囲まれた中庭には樹齢200年以上のキワタや竜眼の木立が涼しげな木陰を作り、穏やかな鳥のさえずりが聞こえてくる。パパイヤやハイビスカスなど南国らしい木や花が、ささやかに植えてあるのもまたいい感じだ。
 何百年も前の時間がそのまま残るような孔子廟が、一方で革命の拠点の一つとなったというのもまた感慨深い。


以下、ちょっと写真で紹介。




 
 正門。確か「毛/沢/東/同/志/農/民/講/習/所/旧/址」とか書いてあった。


 正門から入ったところにもう一つ門。「番寓學宮」と書かれている。たぶん清代以前くらいに書かれたものと思われる。孔子廟ということだけど、おそらくここは儒学の学校かなんかだったのだろう。
 ちなみにこの門の脇、柱の間に講習所の(当時の)事務所が再現されている。・・・・・・が、これだと屋根がないため雨なんか降ったらずぶ濡れになるんじゃないだろうか?


 中はこんな感じ。この後ろに同じようなのがもう一つある。
 講習所時代にはここは教室として使われていた。私が行った時は5.4運動*7に関する展示をしていた。講習所とは関係ないが、ちょうど90周年ということで各地でこのような展示が行われていたらしい。


 講習所で学んでいた人たちの宿舎。
 ・・・・・・これはひどい。って言うか、これもしかして二段ベッドじゃなくて三段ベッド!? あのハンモックにも寝るのかな?



 ・・・・・・なんか長々とマニアックな話をすいません。写真もヘタですいません。
 次回は私が目撃したかの国の矛盾の一端の話か、中国の書店・図書館の話でもします。来週忙しいので更新は7月になると思いますが。(その前に沖縄・慰霊の日があるので沖縄戦関連のエントリーあげるかもしれないけど)
 

*1:彼らが日本の士官学校で使われていた「射撃教本」を教科書に採用しようとしたらソ連の軍事顧問から「こんなものは実戦では使い物にならない!」と一蹴されたなんて逸話もある(笑)

*2:国/民/党と袂を分かった後創設された中/共の軍。八/路/軍、人/民/解/放/軍の前身

*3:十/大/元/帥という

*4:ただし共/産/党においては「学閥」よりも同郷の者同士の絆が尊重され、国/民/党のように「コウホ系」というグループはできなかった

*5:中国の伝統的建築様式。中庭を四つの棟が囲む方式

*6:別名。現在ではなくなったが、中国人は本名の他に「字(アザナ)」という別名を持つ。

*7:1919年、中国最初の大衆運動。日本の帝国主義的21か条を政府が受け入れたことに反発して起こった。これ以後、それまで一部の革命の志士・知識人階級が行っていた反帝国主義・反植民地主義の運動が、学生・労働者・農民など大衆的な運動になっていく。