部屋は壊れないか?


 国慶節とは何の関係もないですが、気になったことがあったので自分の考えを整理するために書いておきます。


 どうも昨日?は魯迅の誕生日だったらしく、ある知り合いのブログで彼の誕生日である旨とこんな文章が紹介されていた。ただしそのブログにはこの文章がどの作品の文章であるかは示されておらず、そもそも魯迅の文章かも定かではない。ただ魯迅の誕生日であることと合わせて掲げてられていたので、彼の文章かと推測するのみである。
 そして私は魯迅(以下、魯迅と仮定して話をすすめる)がどのような状況でこれを書いたか、作品全体の中でどういう位置を占める文かも知らない。実を言うと魯迅の作品をちゃんと読んだこともなく、ただ中国近代史を学ぶ中で一つの要素として型どおりの知識を持つのみである*1。そんな状態で論じたものであることを書いておく。


 掲げられていたのは以下の文章である。

たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか


 なんとも深い問い立てである。
 しかし、私には何か引っかかる。このような「問い」に何か意味があるのだろうか? と言うか、これを受け取ったものがおとなしくこの「問い」の土俵に上らなければならないことってあるだろうか?
 これはドストエフスキーの「もし無実の子供に癒えることのない傷を与えるのと引き換えに世界人類が幸福になれるとして・・・」*2といった言葉に感じたのと似たような違和感だ。・・・つーかぶっちゃけドストエフスキーのこれって、ほとんど脅迫の域に達していると思うんだけど。


 だが私の疑問(と言うより暴論)を展開する前に、魯迅がなぜこう書いたか、どのような気持ちだったか、何が言いたかったかは私も理解できるつもりだ。


 魯迅の時代、中国は列強の植民地化などによりまさしく滅亡の危機に立たされていた。民衆は列強や軍閥,地主や資本家ににあらん限りの搾取を受け、古い因習に縛られ、アヘン漬けになり、日々の生活だけでなく人心も荒廃しきっていた。まさしくはたから見れば彼らは塗炭の苦しみの中、悲惨の極みの中にいた。
 しかし当の民衆にその苦痛は自覚されていただろうか?
 彼らは「無知蒙昧」であった。自分たちの苦しみ原因を知らず、むしろ外部を知らないため自分が苦痛かどうかも知らず、己を踏みにじるだけの古い因習を後生大事に抱えむしろそれに偽りの救いを見出す。そしてどうしても耐えられない時はアヘンを吸ってすべての苦痛を感じなくさせる、その代償に彼らはますます無気力に客観的には悲惨になり、最終的には破滅するだろうが、ともかく彼ら自身は苦痛を感じない。
 「目覚めた」知識人階級や革命家はこの状況が容認できない。彼ら民衆を救うため彼らを「啓蒙」し、因習を破壊しアヘンを取り上げ、自分達がいかに搾取されているかを自覚させて、立ち上がらせようとする。
 それは当時の時代状況からすればそれはしかたのない行動であり、まぎれもない「善」であり、民衆のためではあっただろう。


 だが魯迅は彼らの情熱に、無邪気とも言える「啓蒙」や「革命」への信奉に釘を指した。
 なるほど、民衆は目覚めなければならない、自分で自分を救わなければならない。しかし「目覚める」ということはすなわち今まで存在しながらも感じなかった苦痛にも目覚めることである。何しろ「目覚める」ためには今自分が搾取され、深い苦痛の中にいることを自覚しなければならないからだ。そして彼らはもはや因習やアヘンによって慰められることもない、と。
 そして目覚めたかと言ってすぐに救われるわけではない。敵は強大であり、いつかは倒せるかもしれないがそれまでに無数の民衆が苦痛のうちに死んでいく。


 と、この「問い」にはかような深い矛盾を示している。
 主観的な幸福の中にいる不幸な人の目を覚まさせるのは善であるか。多くの誠実な人はこの問いの前に立ちつくしてしまうかもしれない。
 だが・・・・・・以下暴論。


そもそもこの問い立てはある絶対の前提の上に成立している。
つまり彼らが「どうしても壊すことのできない」部屋の中にいる、という前提である。
が、そもそも問われた者が「いや、俺はそんな前提無視するよ」と言ってしまったらこの問いは成立しなくなる。
・・・だって、「どうしても壊すことのできない」部屋っていったい何? さらに冷静に考えればそんな部屋にそもそも大勢の人はどうやって入って、死んでいくのだ? 密室殺人か何かか? 入ったんなら出られる方法もあるんでないかい?

第一、「どうしても壊れない」って誰が決めたんだ? それって問いを発したものの主観、つまり単にその人の頭では壊す方法を発見できないだけで、実は他の人が方法を探せば案外いい方法が浮かぶかもしれない。それこそ中の人間を起すかどうか迷っている暇があれば、道具を持ってくるなり、壁を壊すために火薬を用意するなり最後まで行動すればいい。


 そうであれば中の人は寝ているより起きてもらったほうがいい。中から壊す方法はないか(つーか入ったんだから壊して出れそうな箇所は必ずありそうだが)、地面に穴を掘って下から脱出できないか(←畑を荒らす猪だってできる)、あるいはそんなに大勢いるんだから一人くらい気功の達人がいて(以下略)
 

 ・・・で、それで結果的に時間切れになってやっぱり彼らは悶絶死するかもいれないが、血も涙もない言い方をすれば「結果的」にそうなってしまったとしか言いようがない。


 また例えば、中の人なんてどうなってもいいむしろ彼らが悶絶しながら苦しみ死ぬ様子を安全な場所から見物したい、というおまえの血の色は何色だ的な奴にもこの問いたては成立しない。彼らはむしろ安らかに眠る人を嬉々として叩き起すだろう。
 と言うか、魯迅はこういう中の人の運命などそもそもどうでもいい、と思っている人は想定しなかったのだろうか? むしろこのような人をこそ想定し批判しなければならなかったのではないかとちょっと思う。


・・・まあ、最後の人非人のことはともかく。
この問いを発した者は、「どうしても壊せない」なるものを想定した。しかしその部屋が何故「どうしても壊せない」かと言えば、それはこの問いを発した者がそのように設定したからだ。つまり言いかえれば「どうしても壊せない」部屋に「大勢の人」を閉じ込め死に至らしめようとしているのは、この問いを発した者である、とも極論できる。


 魯迅は確かに一つの重要な問題提起をした。それは当時の中国ではよりいっそう重要な提起であった。
 だがそれはそれとして何も万人がフェアプレイの精神でこの土俵におとなしく上がらなければならないわけでもないだろう。。
 「あなたの言うことはごもっともです」とこの深い問いたての前に無力に頭を垂れることもない。そんなことをする前に「そもそもこの部屋は本当に壊せないのでしょうか?」と問い返しの一つでもすればいい。魯迅もむしろそちらこそ望んでいるかもしれない。

 

 このような問いを投げかけながら、魯迅自身の答えは明白であるように思える。
 彼はやはり大声で部屋の中の人を起すであろう。その先に地獄が待っているのを知りながら、他ならぬ自分が現出させた地獄の光景に向き合う覚悟を決めて。
 彼が「啓蒙」や「革命」を絶対善として推進する人々に投げかけた問いはそれであったと思う。「啓蒙」や「革命」の先にある地獄に向き合う覚悟が君にはあるか、と。

 また魯迅は「君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」と言う。そう、「君」がやったのは大声で彼らを起しただけだ。彼らを救うために部屋を壊す努力をつくしたわけではない。私には、魯迅が大声をあげるだけではだめだ、部屋を壊せと言っているように聞こえる。


 であれば、やはり魯迅が望んでいるのは自分の問いに相手が屈服し、殊勝に頭を垂れて立ちつくすことではない。
 無邪気に「啓蒙」の絶対性を信じる者はその先にありうる地獄に恐れおののき、覚悟を決めるべきだ。その自覚と覚悟を胸に抱きながら、それでも口では笑って「そんな前提なんて知らない。あなたがこの部屋は壊れないなんて言っても無能なあなたに代わって自分が壊してみせるよ」くらいは言ってのけてみよう。



・・・と、まとまらないながら一応頭の中でぐるぐるしていた考えを吐き出してみた。いつかドストエフスキーのことにも触れてみたい。

*1:そしてその型どおりの知識のみで言魯迅を好きか嫌いか言うならわりと好きな人物だ

*2:正確な文は忘れてしまったが、だいたいこんな感じ