泉州琉球館と聚宝街(福建旅行4)

泉州琉球館(来遠駅)


 さて、「天后宮」を後にして「来遠駅」こと「泉州琉球館」を探しに行くことにしたのだが、その手がかりは三つ。

一、「泉州海外交通史博物館」の何十年前かの跡地写真→川沿いにあることしかわからない。しかも市内に数多くあるどの川かもわからない。
二、「泉州海外交通史博物館」の学芸員さんが教えてくれたこと(でもリスニング能力ないからあんまり聞き取れなかった)→「天后宮」の南側。地図で指し示すことはできない(これはけっこう重要な情報)。「来遠駅」があった場所には今は何もない。
三、偶然持ってきていた『琉球王国』(赤嶺守)の記述。

「刺桐城」*1の南門を出ると晋江にそそぐ支流があるが、琉球使節の公館であった来遠駅は、その支流沿いに位置していた。当時、一般的に外国人が城内に居住することは許されていなかったことから、来遠駅も城外に位置していた。近くに外国商品を取り扱う商人の集まる聚宝街*2があった。聚宝街は古今東西ありとあらゆる宝の集まる最も古い商店街であったという。来遠駅はその聚宝街の近くにあった。琉球から持ち寄られる附搭貨物の中にはそこでさばかれるものも少なくなかった。また琉球側の必要とする商品も、聚宝街のより商人により集められたものが多かったという。

 この「聚宝街」、泉州市の地図を見ると「天后宮」のすぐ近くにその名を冠した通りが存在する。「南門」がどこにあるかは確認できないが、その「聚宝街」を横切って晋江にそそぐ小さな川も地図に載っている。


 「天后宮」の南側にはいくつか支流があるが、「聚宝街」の近くを流れる川はこの一つだけ。「天后宮」の東側を流れて途中で西に曲がる小さな川である(下記の地図をズームしてください)。この川沿いに絞って、少し上流の方から下流に向かって探していくことにする。


大きな地図で見る


 まず「義全街」という通りから、川沿いの道に入る。この川沿いの道は市内地図にも記されていないのだが、ちゃんと存在する。


「義全街」から川沿いの道へ。支流って言うよりドブ川だが・・・

 「泉州海外交通史博物館」の跡地写真を見ながら、何か痕跡はないかと探して歩くこと十分ほど。
 なんかちょっと形的に似ている場所が。

 ・・・・・・まあ、似ていると言えば似ているような・・・・・・。当時、この場所を見つけた時は、ものすごい似ているような気がしたのだが。
 跡地写真は、河口またはこの地点で分岐しているように見える。しかし支流の河口になる晋江は巨大な河であるからこの程度の規模のはずがない。
 私が見つけたこのポイントは、分岐地点でもあった(しかし地図にはこの分岐点は載っていない)。場所は、「市七中」という中学校の裏になる。
 この場所は学芸員さんの言っていた『地図では指し示せない場所』に当てはまると言えば当てはまるが、「市七中」は地図に載っているから指し示せなくもない・・・・・・。
 結局、これ以上のことはこの段階でわかるはずもなく、このポイントを第一候補にして川下りを続行。


 さらに十分ほど行くと、川がほぼ直角に西に折れ曲がるポイントに来る。また東側から流れてきた別の川も合流する。(この地点は地図にも載っている)。
 この逆T字型になっている地点も地形的に跡地写真に似ているような気がするが、やはり第一ポイントほど似ている気はしない。
 そのまま私も川に沿って西へ。「聚宝街」とその向こうにある晋江の方へ・・・・・・。
 が。

 なんだコレ?
 どうやら道を間違えたらしく、「聚宝街」を通らず晋江まで来てしまったようだ。その晋江の目の前にあったのが上の「富美宮」。由来はよくわからないが、けっこう有名なお宮のようだ。丸くなっているお婆さんたちがいっそかわいい。
 この付近には、お参り用の線香やら何やらを売っている古風な店が多かったが、この場所に限らず泉州の路地裏には小規模な宮や祠のようなものが多い。福州から泉州に行く途中、いくつかの農村を通ったが、どこの農村でも日本で言えば村神社やお地蔵様の祠とも言うべき祭祀施設があった。たぶん正月だったからだと思うが、それらは飾り付けられ明りも灯り、お供え物などもあって、なかなか風情がある眺めであった。


聚宝街


 その後、道に迷いまくったあげくなんとか「聚宝街」に到着。ここがかつて古今東西の宝を集めた「聚宝街」!

 ・・・・・・跡形もないな。本当に普通の商店街と化していました(閑散としているのは、たぶん正月だからです)。

 すぐ側には晋江が流れています。


再び泉州琉球


 さて、結局、あの「市七中」の裏以上に「泉州琉球館」跡地と思われる場所は見つからなかったのだが、あそこにしろ違うにしろもう少し何か根拠になるものが欲しい。
 と言うわけで、ちょっと「泉州博物館」も覗いてみることにした。「泉州海外交通史」は貿易史や船舶史に特化した博物館だが、こちらはもっと全体的な泉州の歴史や文化について展示している。

 で、そこで驚愕の写真を見つけてしまった。

 碑? 石碑があるの!?
 そんなのどこにも見かけなかったけど? 見落とした? それとも別の川だった?*3

 碑があると言うなら、ここまで来て発見しないわけにはいかない。私は急遽、さっきの川に戻った。
 他の川なのかもしれないが、もう日も暮れかけていて今からまったく別の川をあたることはできなかった。見落としていただけだと願ってもう一度、さっきより上流から探してみる。特に写真に橋が写っているから、橋の付近は要注意だ。

 しかし、何も見つからないまま、川が西に曲がる逆T字型地点まで来てしまった。
 このままさっきと同じ方向をもう一度探すか、さっきは探さなかった東側から流れてきてこの地点で合流する川の方に行ってみるか・・・・・・。
 ここで、後で思えば天后・媽祖様が助けてくれたとしか思えないが、私はもう一度さっき行った西に、晋江の方に向かって流れる川の方を先に探すことにした(この西に流れる川沿いはあまり人通りもなかったので、あんまり暗くならないうちに行っておいたほうがいいと思ったのだが)。


 そしてやはり何の収穫もないまま10分ほど歩き、もうあと少しで川が地下にもぐってしまう寸前まで来た時のことだった。それは突然現れた。

 あった!

 私はこの時、本気で媽祖様に感謝した。
 思わず石碑を撫で回してしまった。

 で、この場所がどこだったかと言うと、「聚宝街」の目の前・・・と言うより、この名も無き通りと「聚宝街」の通りの交差点であった。どうやらさっきは道に迷ったため、この道は通らなかったようだ。


目の前の通りが「聚宝街」

 
 「泉州博物館」の写真によれば「来遠駅」の隣には、琉球関係とは別に何かの碑があるらしいのだが・・・・・・「来遠駅」の隣の碑は、見るも無残なことに向かいの商店(魚屋とか果物屋)の荷物置き場と化していて、ダンボールなどがうず高く積まれ、碑があるのはわかるがなんと書かれているかまったく見えなくなっている・・・・・。
 そんな中で「来遠駅」の碑だけが無事だったのだが・・・その訳はすぐに判明した。私が碑を発見して五分と経たずに、向かいの商店のものらしい車が来て、「来遠駅」碑の前に駐車したのだ。・・・・・・あの商店街の人? この碑は別に駐車ポイントとして建っているわけでは・・・・・・
 ともかくちょうど私が写真を撮り終わった直後に駐車されたわけだから、もし私がこっちの道を探すのを後回しにしていたら、この車のせいで碑を見落とすか、見つけても撮影は不可能だったろう。やっぱり媽祖様のおかげだろうか?
 ちなみに商店街のおじさんには、いきなり来て石碑をべたべた触ったり写真を取りまくっていた私の方こそだいぶ不審な人に見えただろう。


 さて、無事に石碑は見つかったものの、この場所にかつて「来遠駅」があったかどうかは少し疑わしいのではないかと思う。前述した通り、碑の隣は別の歴史的な何かを記念する碑が二つも建っていたのであり、単にこの川に関係のあることを記した碑をまとめてここに建てただけである可能性は高い。学芸員さんも、『「来遠駅」があった場所には今は何もない』と言っていた。石碑と「来遠駅」の場所が同一なら石碑のことに触れると思うのだが?
 現段階ではこれ以上のことはわからない。なので、石碑は石碑としてあり、「来遠駅」があった場所はこの川の別の場所(「市七中」の裏が第一候補)と仮定しておくことにする。

 ちなみに「来遠駅」碑の場所↓

大きな地図で見る
ちょうど「A」と表示される地点に碑はあります。


 もうすっかり日は暮れていたが、媽祖様にお礼を言うため「天后宮」へ。もう閉館の時間だったので外から頭だけ下げ、地元に帰ったらそこの「天后宮」に行くことにした。










 






 

*1:昔の泉州の別名

*2:じゅうほうがい

*3:学芸員さんは言っていたかもしれないが、たぶん私の中国語能力では理解できなかったのだろう