『沖縄映画論』「『八月十五夜の茶屋』論」について(1)

沖縄映画論

沖縄映画論


『沖縄映画論』 

 ネット上のとある書評で紹介されていておもしろそうだったので借りてきた。8人の論者がそれぞれ沖縄映画に関する論文を載せている本で期待していたのだが、読んでみてあまりパッとしないデキであった。新城郁夫の「『八月十五夜の茶屋』論」以外は。


 べつにこれといって悪いところはないのだが、論の展開がどの論文も非常に生ぬるい。読んでも、だからなに? という以外の感想が出てこない。どの論者も「癒しの島としての沖縄」を語ることに対し批判的で、ポストコロニアリズム的言論を展開しているが、ある意味『反「癒しの島沖縄」論』『ポストコロニアリズム的言論』のテンプレ的な言論となり、その枠から一歩も外へ出ていない。*1



 その中にあって異彩を放っているのが新城郁夫著の「『八月十五夜の茶屋』論」である。だが、この『沖縄映画論』を紹介したブログをざっと見てみたが、「『八月十五夜の茶屋』論」に触れているブログは見つからない。この本の中で唯一意味のあることを書いている論文であるにも関わらずである。



 だがその理由もなんとなくわかる。新城郁夫論文の趣旨は最も過激な内容*2なのだが、その主張を構成する文章が異常なほど読みにくいのである。
 私は新城郁夫のファン(笑)であるが、最近彼がわざわざ難解な言葉を用いて何度も読み直さなければ理解できない(一文一文が)長く複雑な文章を書くようになってきたことには辟易としていた。
 今回読んだ論文は(内容ではなく)文章の難解さがピークに達したようで、新城郁夫ももうダメか、と密かに彼を心の師と仰いでいた私はちょっと失望した。が、毒にも薬にもならない他の論文を読み終わった後、この新城論文の批評がいかに群を抜く鋭いものであったかを思い知った。もちろんこの『沖縄映画論』の中でずば抜けているだけでなく、この論文単体で見てもそれが提起した問題は極めて重要である。


 以下、自分のための整理のためにも『沖縄映画論』収録の「『八月十五夜の茶屋』論」が提起した問題、あるいは暴き出した欺瞞をまとめてみよう。




「八月十五夜の茶屋」とは? 



 私は『八月十五夜の茶屋』という映画を見たことはない。なので新城論文の中での紹介を全面的に信じて紹介する。


 原作は沖縄駐留経験もあるヴァン・スナイダーの小説。ブロードウェイでのミュージカル化を経て、ダニエル・マンによって1956年に映画化された。映画は原作小説よりもミュージカルの台本を元にしているという。


 主人公は、事務的な失態を犯し左遷同然の扱いで米軍占領下の沖縄に派遣された「フィズビィ大尉」。フィズビィ大尉は沖縄の「トキビ村」の民衆に民主主義を教えることに熱意を燃やし、「プランB」という計画で村にペンタゴン型の学校や民主的組織を作ろうと奔走する。しかし通訳に雇った現地人の「サキニ」はフィズビィ大尉の意向をなぜか意図的に誤訳していき、その結果、村人たちは「茶屋」と「泡盛製造工場」造りに邁進していく。
 サキニに振り回されるフィズビィ大尉は計画を正しい軌道に戻すどころか、しだいに現地人化していく。例えば、大尉は村人たちから「ロータム・ブロッサム(蓮の花)」という芸者をプレゼントされるのだが、このロータム・ブロッサムは嫌がって逃げようとするフィズビ大尉ィを押し倒して軍服を脱がせ、沖縄人風の衣装に着替えさせてしまう。
 物語後半になるとほとんどネイティブ化したフィズビィ大尉も「プランB」を投げ打って積極的に茶屋作りに参加し、周りの同僚をも巻き込むほどになる。

 フィズビィ大尉の変化に感化されたマークリン大尉もまた、クロス・ドレスを経て、小さなみすぼらしい着物に身を包み編み笠をかぶって、年来の希望であった自然農法を試みるために土壌調査に取り組み始める始末である。真剣なまなざしで、「化学薬品でミミズを殺すのは、人を殺すのと同じです!」と必死に上司に訴えるマークリン大尉、そして、その彼の勇士に熱い視線を注ぐフィズビィ大尉もまた真剣なのである。(P40)


 しかし、ついに茶屋と泡盛製造はフィズビィ大尉の上官の激怒を買い、大尉は茶屋と泡盛製造機の破壊を命じられ、本国送還も決まる。苦渋の思いで茶屋を破壊したフィズビィ大尉はサキニに「ぼくは破壊しかもたらさない男だ」と別れの言葉を言い、サキニは「ボスは、敗者じゃない」と慰める。が、その頃本国の議会ではトキビ村の茶屋と泡盛製造が占領政策の優れた成功例として賞賛され、議員がトキビ村に視察に来ることになった。途方にくれる大尉とその上官であるが、サキニは事も無げに「大丈夫、茶屋は解体しただけで直ぐに立て直せる。叩き壊した醸造機もあれは偽者で、本物は残っている」と言い、「では、今からオキナワのやる気をお見せしましょう」と村人全員に号令をかけ茶屋を再建。フィズビィ大尉はトキビ村での駐留も続行できることになり、八月十五日の美しい満月の光を浴びながら、村人たちに茶屋の中へ招き入れられる・・・
 ラスト、サキニの画面の向こうの観客に向かっての「(前略)苦痛が思考力を養い、思考が人を賢くし、智慧が人生を支える。八月の月がみなさんを心地よい眠りに誘いますように。さようなら」のセリフで終幕となる。



 以上が『八月十五夜の茶屋』というコメディ映画の概要である。
 



 ジェンダーとクイア論


 新城郁夫は最近、よく「ジェンダー論」「クイア」「ホモ・ソーシャイズム」などの理論を用いて批評を行っており、この『八月茶屋』批評でも同様の手法を用いている。
 そして残念なことにそのせいで非常に論旨の展開がわかりづらいものとなっている。一つ一つの文の言いたいことはなんとなくわかるが、全体としてちぐはぐな印象がある。
 そも「『八月十五夜茶屋』論」の核心を為す重要な問題定義は、ここまで「ジェンダー論」他を多様しなくても充分主張することができた類のものであり、ジェンダー論他をそこに無理やりこじつけたようにさえ見えてしまう。ジェンダー論他と結論を関連させたいなら、それがもう少し説得力を持つようにするべきだった。


 なので、この論文では「ジェンダー」「クイア」「ホモ・ソーシャイズム」が重要なキーワードになっているが、そのあたりにはなるべく触れないことにする。


 だが、簡単に説明しておくと


・新城は、フィズビィ大尉がだんだんとネイティブ化していく様子を「脱男性化」「クイア化」と捉える。またサキニの男性性は最初から過剰に隠蔽されている。だが、そのような「クイア化」は物語世界あるいは「占領」を根本的に揺さぶることのない安全な範囲にとどめられている。
・フィズビィ大尉とサキニの間にはホモソーシャルな関係が見出せるが、二人の間にロータム・ブロッサムという女を置くことでホモ・ファビアを強化しつヘテロセクシズムを偽装し、二人のホモ・ソーシャルな関係は隠蔽されたまま強化される*3


 というのが重要な点となる。

 そもそもクイア的転倒が生起するとき、そこにおいて同性愛の欲望と実践が否認され、そしてヘテロセクシズムと男根的軍事覇権主義が再配置しなおされるならば、ジェンダー規範に適度な揺さぶりを与えるだけのクイア性にはじめから抵抗の契機などないというべきではないか。(P49)

 


 さて、では『八月十五夜の茶屋』論の核心部分については、次回に続ける(長くなったので)

*1:私も『反「癒しの島」』、反植民地主義は支持しているのだが

*2:ゆえに意味のあうこと

*3:ホモ・ファビアとホモ・ソーシャイズムはコインの裏表である