hagakuressさんへのお返事

※このエントリーは、
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20101006/1286402342
でのやりとりを経て、
http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20100930
に投稿されたid:hagakuressさんのコメントに対する返答です。


大切なのは簡潔な答えより持続的な思考のプロセスであるはずである。むしろ今求められているのは、「沖縄の人々」自身が基地問題や経済問題についてイニシアチブを発揮して自ら代案やグランドデザインを提示するべきだなどといった、勇ましくも実は不安にとらわれた言挙げを無視し続ける知性と言うべきだろう。
(『沖縄に立ちすくむ』(せりか書房)収録、新城郁夫著「沖縄を語ることの政治学に向けて」より*1

否定性ということでいちばん気をつけなければいけないのは、拒否するなかで、代案を示すことがいちばんまずいということです。あるいは、国家が差し出す政策とちがうグランドデザインを作ってみせるのもやはり良くない。差し出された選択肢に代案を出してしまうと、結局は同じ認識の地平で問題を「解決」してしまうことになります。そうした退行において、どれだけ貴重な政治的可能性が潰されてきたことか。ですから、与えられた選択肢を選ばないことが大切です。(http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/shijoikuo090321.htm


id:hagakuressさん

エントリーを建てさせてもらいました。遅くなりましたが、当エントリーを持ってコメントの返事とさせていただきます。


さていただいたコメントを読んで、hagakuressさんが沖縄の基地問題とそれを巡る反対運動の状況ついて充分な知識を持っていることがわかりました。複雑な状況をよくここまでわかりやすくまとめたものだ、と感心もしています。実のところ、当初(「法華狼の日記」のコメント)は「沖縄の実情を知らない人がまた好き勝手言っている」という印象を受けたのですが、私の思い違いだったようです。その点についてはお詫びします。
基地問題は全国民が考える問題で、活発な議論が必要というのはまったく同意します(しかし問題はその内実です。後述します)。
しかし、反対運動に対するhagakuressさんの認識や「代案」というもの、または基地問題の捉え方については同意できない点が多く反論あるいは矛盾点を一つずつ指摘させていただきます。



ところでコメントを読んで思ったのですが、基地問題や反対運動に対し(どうもあなたの文は主語がはっきりしていなくて、誰に対しての認識なのか、hagakuressさん自身の意見なのか、単なる「現状分析」なのかとかがはっきりしない点が多く、それらに対しては対象を推測して話を進めます)ビジョンや代案がなく『完全閉塞』であると書かれています。そう解釈されても仕方がない面はあるでしょう・・・・・・しかしそれとは別に、「ビジョン」も「代案」も見失い『完全閉塞』に陥っているのは、まずもってhagakuressさん自身もではないですか? だからこそその苛立ちを反対運動にぶつけているような気がします*2
 まあ、これは私の印象でどうなのかはわかりませんが。



反対運動に対する認識に関して


>『度合いが違う』とかではなく,全体として少人数であったという事を指しています。
>申し訳ないのですが,平日の午前中に『シュプレヒコール』や『プラカード』で抗議している,能動的で積極的な政治活動を行なう市民は『平凡』で『一般的』な市民では無いと思います。


  私はまったくそう思いません。
  それ以前に論理が完全に矛盾しています。
  hagakuressさんは彼らを宮古島民から乖離している存在と認識する根拠として人数が少ないことをあげますが・・・hagakuressさん自身が言うように「平日の午前中」なのですよね? そしてhagakuressさんは「平日の午前中」に抗議活動を行うことの困難だと認識されていると思います。何故ならその困難を乗り越えられることを一つの理由として「『平凡』で『一般的』な市民では無い」と彼らを認定しているのですから。


  つまり
・人数が少ない→宮古島民から乖離している(「平日の午前中」であることは無視)
・人数が多い→「平日の午前中」に抗議できるのは一般的な市民ではない→宮古島民から乖離している
というどっちに転んでもhagakuressさんの認識に都合のいい結論ですが、それゆえに矛盾しています。



  そしてここで一番に問題にしなければならないのは、「能動的で積極的な政治活動を行なう市民は『平凡』で『一般的』な市民では無いと思います」と決めつけてしまうhagakuressさん自身の偏見です。「法華狼の日記」のコメントで「多様な意見の尊重」を訴えているのに、自身が「多様な意見を尊重」する気が感じられません。偏見を克服するのは「平日の午前中に抗議活動を行う」ことより難しいかもしれませんが、こんなふうに人をどんどん区分けするのを続けると、そのうちhagakuressさん以外に「『平凡』で『一般的』な市民」は一人も存在しなくなりますよ。
  また、仮に「自分ではなく「普通」の人は彼らを「普通」ではないと思っている」と言うなら、「能動的で積極的な政治活動を行なう」ことが『平凡』ではない現状に疑問を持つ視点が必要ではないですか。



>(山城さんのように沖縄本島からわざわざやって来て参加なさってる方も居ますし)


  それは大変すばらしいことですね。宮古で問題が起きた時は本島が力を貸す、本島で問題が起きた時は宮古が力を貸すということがもっと行われるべきです。私などは宮古に行かなかった自分を恥ずべきではないかと思っています。
  また、宮古島の民間港湾が米軍に自由に使われるのを許すことは、やがて本島も同じ扱いを受けるかもしれない、という考えで行く人もいるでしょう。



 疑問なのは

>実際過剰な基地負担は日本国民全体の問題として取り扱われるべきですし

  hagakuressさんはこのような認識を持っているのに、なぜ本島から駆けつけることにはマイナス印象を持つのですか。現場に行くだけが問題に対処する方法ではありませんが、マイナスでもありません。宮古へ本島の人間が行くことをとやかく言っていては、沖縄の基地問題を「日本国民全体の問題」と言っても説得力がありません。  



>私は受取る側がもっと『先入観無く賛同しやすいやり方』を模索した方が良いと思いますね。

 ・・・・・・あの、『先入観』ってよく「先入観を捨てて物事を見よう」って言われるように、決して良いものではありませんよ?(A「俺、おまえのこと悪人だと思う」B「何を根拠にそんなことを」A「いや、これ俺の先入観だけどさ」・・・・・・って話ですよ?)・・・って言うか、反対運動が受け入れられない理由って『先入観』なのですか?
  反対運動にも問題があり変えるべきは変えなければいけないように、『先入観』を持つ者はその自分の『先入観』を問うべきです。反対運動にだけ変わることを要求して自身の『先入観』はそのままでいいというわけではありません。反対運動がいくら変わろうとも、『先入観』(例えば「能動的で積極的な政治活動を行なう市民は『平凡』で『一般的』な市民では無いと思います」とか)を捨てることができる者は最終的にはその『先入観』を持っている本人しかいいないのですから。



辺野古の守護神平良夏芽牧師


  平良夏芽氏、いつのまに守護神に!!??  牧師さんから神へ昇格したのですか!? いつのまに・・・・・・(汗)。やだめですよhagakuressさん神に仕える牧師を神様扱いするなんて神をも恐れぬ事を言っては神罰が下りますまあこの世には神も仏もいませんけど。
  あと、今まで黙っていましたが、実は平良夏芽は私です*3


>『ここに来た人の多くは、 -頑張って下さい- って言って帰って行ったの。“頑張って下さい”ってのは、私は頑張りませんっていう宣言。』
>いったい『なにを頑張れば』現実として状況は改善されるのか? がもっともっと問われるべきです。 


  そもそもこの発言は、基地問題について良心的な人々の中にもある無意識の「他人事感」を指摘したものでしょう。つまり「現実として状況は改善されるのか?」という「問い」以前のことを問題にしているのです。私は偽者なので平良氏の「ビジョン」についてはわかりませんが、この次元の違う発言を引き合いに出して「何をがんばればいいか?」を平良氏が考えていないかのように書くのは不適当です。
  そして「他人事感」をそのままにしておいて先に進むことはできません。
  hagakuressさんが「問われるべきです」という対象は文脈として反対運動のあり方ですよね? それは反対運動としても望むところだと思いますが、その問われるべき対象にhagakuressさん自分を含めているのでしょうか?




 「代案」という落とし穴


>しかし,そのどこからも現実的な代案は出現しませんでした。この問題の解決(終了)のためには,今後の『日米安保』『日本の安全保障』をどのようにデザインするのか? という『ビジョンが不可欠』であるのにもかかわらず,これについての広い合意へと『結び』を繋ぐ有力な『代案』がない状況


  「現実的な代案」が「出現しなかった」という言い方が妥当かどうかという問題もありますが、そもそも何が「現実的な代案」かという問題があり、さらに根本的なことを言えば、問われるべきは「現実的な代案」が不可欠だとされる論理そのものではないかと思います。


「代案」を巡っては、大きく以下の二つの考え方があります。
【1】「代案」を問題解決のために不可欠なものと見なし、模索していく。
【2】「代案」を提出することを拒否し、「代案」などが要求されること自体を批判していく。


  普天間問題に対する私の基本的な立場は【2】です。そして反対運動が力を持つとしたら【2】を運動の方針の大前提とし、「『代案』を出せ」という脅迫的な論理のおかしさを指摘して、【2】の考え方が国民的前提になるよう務めることでしょう。


  では、普天間問題に対して*4なぜ「代案」という「思考の陥穽」にはまってはいけないのか、それはこの場合「代案」は無意味であるだけでなく有害でさえあるからです。
(hagakuressさんの文章では「誰」が「代案」を必要としているのか、「誰」が「代案」を出すべきなのかがよくわからないのですが*5、ひとまず「沖縄」や「反対運動」を「代案」を出す主体とhagakuressさんは認識している、と仮定して話します。)



1.沖縄が「代案」を考えるのは道義的に問題である。

  沖縄の基地問題は、沖縄に負担が集中し続けているために「沖縄は日米に踏みつけてられている」という状態にあります。踏まれている側がその足のどかし方まで考えてやる道理はないのです。踏んでいる側が自分で考えるべきであり、踏まれている側は「踏んでいるからその足をどけろ」と言うだけで充分すぎます(言われなくても踏んでいるならどかすべきである)。
  しかし実際には、踏んでいる側がろくでもない「代案」しか出さないため踏まれている側が考えてやらねばならない状態にあり、それが踏まれている側(沖縄)の疲弊を招く原因になるのです。ちなみに普天間基地問題の場合の「ろくでもない「代案」」とは、普天間基地を撤去するために辺野古に(その名も)「代替施設」*6を造るというもの。そして「(政府「代案」に)反対するなら沖縄側も「代案」を出せ」という論法は、結局は基地問題を全国民的問題ではなく、沖縄という地域に封じ込める作用をもたらします。
  沖縄にこれ以上の「代案」を求めるのではなく、この構図をこそ改める点なのです。



2、「代案」は必要か?

  そもそも沖縄に数多くある米軍施設の一つに過ぎない普天間基地を返還しろという要求に、いちいち「代案」を求められるのがおかしい。何も今すぐ日米安保を破棄して、全ての基地を撤去しろという要求が主流になっているわけではありません(それはそれで問題がある状況ですが)。
  「普天間基地の返還、ただし県内たらい回しは認めない」が沖縄の世論調査などに見る最大公約数的要求であり、いたってシンプルなものです。しかし、それに対してまるで「代案」が絶対に必要なものであるかのような認識は、問題を複雑にし、「普天間基地返還、県内たらい回し反対」という大前提をあいまいにしてしまいます。



3、「代案」は出なかったか?

>しかし,そのどこからも現実的な代案は出現しませんでした


  これは事実に反します。「代案」を沖縄側が出す必要はないと書きましたが、政府側がろくでもない「代案」(辺野古への新基地建設)しか出さないので、(「代案」を出さなければいけないという思い込みにも基づいて)いくつか出てきました(そのため大前提があいまいになりましたが)。
  例えば「無条件撤去」「県内移設反対」「県外移設」「グアムなどへの国外移設」*7などはすべて政府の普天間基地返還のための代案である「辺野古への「代替施設」建設(県内移設)」「代案」に対する「代案」です。特に伊波宜野湾市長が掲げる「グアムへの移設」は、アメリカ自身も海兵隊のグアム撤退を考慮している点から見ても最も「現実的」な「代案」でしょう。(私はあまり賛成できませんが)*8
  しかし、自民党時代からどの「代案」に対しても政府は「反対」ばかりを言い続け、現在はまた「現実的」と称して「辺野古「移設」」に落ち着かせようとしています。しかし、このように県民世論が受け付けない中で、さらにアメリカ側からも「辺野古は現実的ではない」との声もあがる中で、「辺野古「移設」」は必ずしも「グアム移設」などと比べて特に「現実的」な「代案」ではないのです。
  ならばここである疑問が浮かびます。すなわち、「現実的」とは「代案」の中身ではなく「力ずくでできるかどうかではないか?」という疑問。そして政府側にも「なんとしても基地は沖縄だけに集中させておきたい」という大前提があり、その大前提を貫徹させるためにいかなる「代案」が出てこようとも「辺野古「移設」」以外はすべてありとあらゆる理屈をこねて「現実的」ではないと切ってしまうつもりではないかという疑問です。
  「現実的な代案」なるものがどこかに存在しそれは尊重される、という認識だけですと、「代案」が通らないのはその「代案」が「現実的」ではないからだという結論にしか達せません。しかしそうではなく、そもそも政府はいかなる「代案」が出てこようとも受け付ける気は最初からないのかもしれない、という観点に立てば「現実的な代案」を模索し思い悩むのが現時点ではいかに徒労であるかがはっきりします。


>これについての広い合意へと『結び』を繋ぐ有力な『代案』がない状況

  hagakuressさんはこうも書かれましたが、「有力な『代案』」が要求されるなら、それを要求する側にも「有力な『代案』」があれば本当に合意する気があるのか、と検証しなければならいでしょう。もし相手(この場合日本国民)が沖縄に基地を押し付ける現状維持を第一とする「合意」以外に結ぶ気がないのであれば、その状況をこそ穿つべきでしょう。 

  現時点で重要なのは、何がなんでも「辺野古「移設」」を推進しようとする政府の意思と、結局のところ「やっぱり基地は沖縄だけに置いておきたい」(基地被害は受けず、日米安保によってもたらされる平和は享受したい)と考え、結果的に政府の意思を容認する大多数の日本国民のありようが問われることです。


  4点目として「そもそも普天間基地という住民の土地を収奪して造られ、イラク戦争などで遠い他国の人々を殺すのに役立っている基地の返還(撤去)に「代案」が必須とされるのは、普天間基地という不正義のその不正義性を不問にし、今後もその不正義が起こることを容認することではないか」と言おうとしましたが・・・・・・うまく説明できないので概略だけに留めます。



  はっきりさせなければいけないのは、例えば「普天間基地返還、県内移設反対」という大前提です。この大前提は沖縄県内においても紆余曲折を経た末になんとか一応のコンセンサスを得ていると思います。しかし、昨年かなりの盛り上がりを見せたもののこれが全国的なコンセンサスと成りえているかとはまだ言えないでしょう。この過程をすっ飛ばして「代案」何々を議論してもはじまりません。むしろこの大前提を国民的に共有するためにも、「代案」幻想や「現実的な代案が出ないんじゃしょうがないよね」という論法で「沖縄に基地を押し付けておく」ことを正当化している現状を批判しなければいけないのです。
  hagakuressさんは、昨年の盛り上がりの失速を「現実的な代案」が出せなかったためと見ているようですが、反対運動の問題はそれではなく「普天間基地返還、県内移設反対」という大前提が国民的にはっきり共有されているとは言えない状態で、魔法の杖か何かのように政権交代が(大前提を国民的に共有させるという地道な過程がなくても)問題を解決するかのように期待を振りまき、話を先に進めた点が痛かったと思います。言わば土台を作らないで家を建てようとした、ようなものだったのです。



活発な議論の自己満足

>それについて公平で現実的な対処が実現するよう,活発な議論が国政レベルでも市民レベルでも行われる事が必要なんでしょう。


  まったくその通りだと思います。しかし・・・そうであるゆえにほとんど何も言っていないのと同じです。ここでもやはり「活発な議論」の内実が問われます。


  「国政レベル」「市民レベル」での「活発な議論」と言えば、昨年は近年まれにみる活発さでしたね。しかしその落ち着き先はどこだったか。「やっぱり辺野古」で話が落ち着こうとしているではないですか?
  hagakuressさんは、現在の『閉塞状況』は反対運動の無力さ(ビジョンの無さ)が招いたように思われているようですが*9、同時にこの『閉塞状況』はまさしく「活発な議論」の帰結でもあるとは思わないのでしょうか?


  確かに、「沖縄問題」が黙殺される中で昨年のような「活発な議論」が巻き起こったことは多いに意義があります。しかし、「活発な議論」はあくまで過程であってゴールではない。そこでどのようなことがどういう利害関係の駆け引きによってどんな方針で話し合われ、どんな結論が導かれたかが重要です。
  残念ながら「現実的な対処」を求めて国民的な議論が「活発な議論」が行われた場合、「辺野古「移設」」以外の結論が導かれる可能性は極めて少ないと思われます。
  なぜなら基地が集中しているのは沖縄であり、他の多くの地域は基地の被害を受ける心配もなく日米安保により安心「安全」な日常を享受しているからです。彼らがそんな現状を維持したい(新たな苦労を背負いたくない)というのは無理からぬことであり、そこから「現実的な対処」も導かれます。
  やっかいなのは基地の被害を受け現状を改善したいと思う者と現状を維持したい(沖縄に基地を押し付けたい)と思う者では、後者が圧倒的に多いことです。仮に沖縄選出の国会議員全員が党派を超えて「県内移設反対」でまとまって国会に挑んだとしても、他の46都道府県選出のすべての国会議員の前ではものの数ではありません。「国政レベル」の「現実的な対処」を巡る「活発な議論」の実態とはそのようなものではありませんか?
  そしてその出来レース的な「活発な議論」の果てに導かれた「現実的な対処」(辺野古「移設」)は、「活発な議論」を経たというお墨付き(アリバイ)を得ることができるというわけです。


  必要なのは議論の中身を検証すること、そして「沖縄に基地を押し付けることを是とする」日本やマジョリティの論理そのものを覆すような議論を作り出すこと、ではないですか? 



終わり無き不安


>また,『憲法9条』や『無防備都市宣言』『基地の無い平和な沖縄』に不安無く広い支持が集まる状況が『現実』ならば,辺野古の問題はとっくに解決しているでしょう。


  それを言ったら、『憲法9条』や『無防備都市宣言』『基地の無い平和な沖縄』に不安を持っている人が多い『現実』ならば,辺野古の問題はとっくに新基地を建設するという方向で解決している、ってことにもなりますかね。


  にしてもいろんな人にいろんな「不安」があって、この「不安」というのは際限なく再生産され続けるようですね。正直、紛争が起こっているわけではないこの国で何がそんなに不安で仕方ないのか、実際の紛争地の人は不思議に思うでしょうね。
  確かに、さまざまな「不安」には耳を傾けなければなりませんが、どこかでくぎりはつけないといけない、とも思います。ある種の人々を見ているとどれだけ不安な状況が改善されようが、永遠に不安で居続けたいと言うか安心するのが不安なようなのでつきあいきれないというか、つきあっちゃいけないというか、な感じです。
 

  それに米軍基地や国防を巡る「不安」と言うのは恣意的なものが多いようです。例えばhagakuressさんは法華狼さんのとこでイラクについて言及していましたが、2004年には沖縄から大量の米兵がイラクに派遣され、普天間基地はほとんど空状態になりました(例の米軍ヘリ大学墜落事件も、極端に人手が不足する中イラク戦争を支援するために、整備兵が連続17時間勤務×3日の激務を強いられた果てに起こった整備ミスによるものでした)。言わば普天間基地の「東アジアの平和と安定」を守る機能が機能不全に陥っていた状態が1年近く続きましたが、そのために不安でパニックになった人はいなかったですね。




 
とりあえずここまでです。
 もし何かありましたらコメントしてくれてかまいませんが、お返事は来週以降になってしまうと思います。

*1:以下でも読めます。http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/sinjoikuo.htm なぜか「引用」になっていますが、入力時のミスかと思われます

*2:もちろん反対運動に対する批判は自由。しかし偏見や事実誤認に基づく不当な貶めは反論されるのも当然

*3:嘘です、すいません。名前は知っているけど面識もありません

*4:必ずしもすべての問題に対して【2】が最善というわけではないので、ここでは普天間問題を前提とします

*5:「代案」は誰が出すべきなのか。そもそも「代案」なるものを必要としているのは誰か、をはっきりさせて議論することは重要なはずですが

*6:実態は普天間の「代替施設」ではなく「新基地」

*7:「県内移設反対」と「県外・国外移設」は微妙に趣旨が違う

*8:と言うより「無条件撤去」以外の案は「現実的」であろうと務めようとしている(=「非現実的」と言われるのを怖れて

*9:もちろん反対運動の失敗、力不足は多々あった