コザ暴動40周年。


 気がつくとあまりの忙しさに更新停滞しているうちにコザ暴動40周年を迎えてしまいました(汗)。


 コザ暴動とは何かと言うと・・・・・・

 それは1970年12月20日未明、米軍占領下の沖縄のコザ(現沖縄市)で起こった自然発生的暴動事件。深夜から20日未明にかけて多数*1の群集が米軍人用車両70台以上に放火や嘉手納基地の一部に押し入った、というものです。また、被害に遭ったのはほぼ米軍車両のみ、一人の死者も無しという点で、珍しい暴動とも言われます。
 20日深夜にコザ中心地のコザ十字路付近で米軍車両による交通事故が発生。その加害者米兵を琉球警察ではなく米軍MPが連行しようとするのを現場に居合わせた人々が阻止しようとしてMPとこぜりあいになり、MPが威嚇射撃をしたことが暴動の直接の原因でした。


 嘉手納基地があるコザの街は、ベトナム戦争出征前あるいは休暇中の米兵と彼らを相手にするAサイン*2バーで賑わい、地獄のベトナム行きが決まっている米兵たちはこれを最後とばかりに享楽に溺れ、その影で多数の沖縄人男女が犠牲になっていました。当時「基地の島沖縄」「ベトナム出撃の悪魔の島」を象徴するような場所であり、その一方で沖縄とアメリカ文化が融合し今でも独特の雰囲気がある不思議な街でもあります。


 この事件の背景として、事件の9日前に糸満市で主婦を轢殺した米兵が軍事裁判で無罪となっていたこと、また米軍基地内に毒ガスが貯蔵されていた問題で全県的な抗議・撤去運動が起き、反米感情が非常に高まっていたという点がよくあげられます。実際、コザの交通事故で民衆がMPが米兵加害者を連行するのを阻止しようとしたのも、まさしくこの主婦轢殺米兵無罪判決の記憶が生々しかったからです。


 しかし、さらに重要な背景として、25年間におよぶ米軍占領下で無数に起こった糸満無罪判決と同じような加害米兵の無罪放免,沖縄人への人権蹂躙、ベトナム戦争で激化する基地被害というのがあります。言わば、コザ暴動は戦後沖縄の必然であったと言えるのではないかと思います。

 さらに言えば、戦後米軍支配時代だけでなく、沖縄戦琉球処分にまで遡る歴史の流れの中で、そして今現在に繋がる流れの中で、このコザ暴動は考えなければならないのではないか・・・・・・と漠然と思っていますが、まだ何とも明確に言うべき言葉を私は持っていません。



 コザ暴動自体についてまだまださほど詳しくはないのですが、どうにも気になる歴史ではあります。とりあえず、以前別件の調べものをしていた時に、1970年12月21日、すなわちコザ暴動翌日の沖縄タイムスを見つけ、コピーしてあったので、そこに掲載された座談会を紹介しておきます。
 この座談会は、コザ暴動の知らせを聞いて現在進行形の現場に駆けつけ取材した地元記者たちが、自らが目撃した光景や見解について語り合ったものです。なにぶん事件直後でまださまざまなことが不明なうちに各々の体験を率直に語ったものですので、この座談会の内容が歴史学的にはどのような評価を受けているのかはよくわかりません。ただ、興奮冷めやらぬ記者たちの生々しい話は、当時の状況をリアルに想像する上で有用かと思います。
 沖縄県立図書館に行けば当該記事は閲覧可能ですが、県外の人にはそれも難しいでしょうし、長くなりますが、全文引用しておきます。

*1:正確な人数は調べることができなかったが、当時の新聞では目撃記者の「3000人規模」という証言柄卯

*2:米軍当局によって米兵相手に商売をすることを認められた店