「集団自決」訴訟勝利(沖縄新聞報道を中心に)

 ちょっと遅れましたが、大江氏の『沖縄ノート』と岩波書店を槍玉にあげ、教科書検定にも影響を及ぼし、ついに十万人の抗議集会にまで発展した一連の事態の発端である裁判が、大江氏・岩波側の勝利で無事に終了した。ひとまずは喜ばしく、ホッとしている。

 まとまった記事を書く時間も文献にあたって調べなおす時間もないので、とりあえず沖縄の新聞報道と判決文の紹介を中心に簡単に感想を書いていく。



 沖縄タイムスでは、「集団自決」の証言者たちの言葉を紹介している。そのうちの一人、大江氏側で努力された金城重明氏について。(太字はブログ主)

那覇で開かれた一審の出張法廷で被告側証人として体験を証言したのは、2007年9月。戦時の証言や講演を請われれば「避けてこなかった」という。最愛の母と幼い妹弟を手にかけた16歳の記憶を、胸の傷をえぐられながらも語ってきたのは「生き延びてしまった者の使命」という信念からだ。 
 出張法廷での原告側について「『集団自決』が起きた当時の社会的背景には触れず、私個人の行動を問い詰めるような尋問に終始した」と振り返る。「一木一葉に至るまで軍の支配下だった沖縄戦。軍の命令なしに『集団自決』は起きなかった」とあらためて口にし、原告の主張を退けた「最終判断」をかみ締めた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16972

 最近も某池田信夫が一切その背景の説明(誰をなぜ殺さざるを得なかったのか)をせず、あたかも金城氏こそ、引いては「集団自決」を告発する大江氏の方にこそ「屠殺者」がいるかのような印象をあたえる文を書いていたのを見てめまいがするほどの怒りを覚えた。軍命否定派が金城氏を攻撃し貶めようとしている話は知っていたが*1、その根源は原告側の裁判における戦術だったのだろうか?
 いやはや、それにしても何とも暴力的な論法である。この論法は「集団自決」に留まらず、さまざまな口封じに応用できるだろう。例えば、中国などにおける旧日本軍の残虐行為を告発するため、元日本兵が自分が参加させられた残虐行為について率直に述べると、旧日本軍の組織としての問題はスルーされ、この旧日本兵の個人的な責任と人格に問題を帰すことも可能になる。旧日本兵の証言は「自分は残虐行為をしていないが、他の日本兵がしているのを見た/聞いた」というタイプの証言ばかり多いらしいが、上の論法の暴力にさらされる危険を思えば、なるほどそのような言い方ばかりの証言になるのも道理である。


 沖縄タイムスでは他に二人紹介しているが、そのうち一人は

沖縄戦時下で座間味村助役だった宮里盛秀さんの実妹で、軍命を証言してきた宮村トキ子さん(79)=沖縄市=は「裁判が始まってから、戦争を忘れようと思っても忘れられず、夜も眠れなかった。これでようやく兄も穏やかに成仏できる。周りが尽力してくれたおかげ。感謝している」と話した。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16972

 上記のような裁判が始まって以来の生存者たちの苦悩を考えると、いったいこの裁判は何だったのかと改めて思う。
 しかし、皮肉にも裁判が起こったことで、今まで口をつぐんでいた人々*2が沈黙を破り、新たに証言を行うものも出てきた。しかし、そのためには上記のような苦悩が伴う。
 下記の目取真俊氏のブログに詳しいが、戦争の真実を知るためにはすでに十分傷ついている被害者の胸をえぐらなければならないことがある,それは是か非か,という修羅のような現実と問いがある。それは、そこまでして「真実」を知らなければならないか,被害者の傷を必要としなければならないのは歴史研究の失敗・不備ではないか・・・という問いにも発展するだろう。

もし、大江・岩波沖縄戦裁判が提訴されず、教科書検定問題が起こらなかったら、宮平春子さんの証言は埋もれたままになっていた可能性が大きいのではないか。そうなっていたら、宮城晴美さんが『母の遺したもの』を書き直して新版を出すこともなかっただろう。
 そのことを考えるとき、沖縄戦の記録と検証、研究のあり方について、大きく重い問いが突きつけられているのを感じる。言うまでもなく、これは沖縄戦研究者だけでなく、沖縄戦の記憶と記録を自分の問題として考え、継承しようとする者すべてに突きつけられている問いだろう。沖縄戦について学び、考えるときに、その問いを絶えず自分の中に持ち続けねばと思っている。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/7ac831d8a295e2e57cfd74396f246726

 沖縄タイムスの特集では、長年精力的に「集団自決」と裁判を追ってきた謝花記者が渾身の思いを込めたような記事を書いている。ぜひ全文を読んで欲しいが、特に重要な点を引用。

沖縄の人々が生きてきた歴史を、なぜ自ら立証しなければならないのか。なぜ法廷という土俵で、沖縄戦を審判する闘いに引きずりこまれなければならないのか。この裁判に、沖縄の人々が意義を見いだすとすれば、「集団自決」の記憶を再び生き直すきっかけになったということだ。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16957

 私は過去の悲劇を現在の教訓や意義に変換してしまうことに疑問を持っているので、「意義」という言葉には少しひっかかる。しかし、重要なのは「なぜ」という記者の心の奥底から湧き上がってきているかのような問いだ。そこにはこの裁判に対する根本的な疑問と怒りがある。訴えられたから「集団自決」や沖縄戦という自分達が生き死んでいった歴史が裁判の俎上に乗せられるのは、決して自明のことではない。
 さらにはこの裁判の過程ではからずも演じられてしまった「歴史の真実を知るためには被害者の胸をえぐらなくてはならないことがある」ということに対する疑問、そのような事態あるいはそのような事態が生起せざるを得なかった状況(裁判それ自体や「証言」に期待をかける自分達のことを含む)に対する怒りもあるように感じる。

 また謝花記者は、今回の勝利が沖縄のみならず全国からの支援があったがゆえであることを書き、このような裁判を起こされたからといって、本土の大多数の人々とは信頼・共感しあうことができること、未来には希望があることをはっきりとさせている。



 最後に、この裁判は最高裁が原告の上告を棄却したことで高裁の判決が確定した。しかし、中には「この裁判を通じて梅澤隊長(赤松隊長と書いている人もいたが)が自決を思いとどまるよう住民に諭したことが明らかになった」とか、明らかに高裁判決文要旨も読んでいないとしか思えない*3発言をしているみたいなので、ちょっと関連箇所を紹介してみよう。(太字はブログ主)

【証拠上の判断】
(1)控訴人梅澤は,昭和20年3月25日本部壕で「決して自決するでない」と命じたなどと主張するが,到底採用できず,助役ら村の幹部が揃って軍に協力するために自決すると申し出て爆薬等の提供を求めたのに対し,求めには応じなかったものの,玉砕方針自体を否定することもなく,ただ「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであると認めるほかはない(判決208頁以下に詳述)。

(2)宮平秀幸は,控訴人梅澤が本部壕で自決してはならないと厳命し,村長が忠魂碑前で住民に解散を命じたのを聞いたなどと供述するが,明らかに虚言であると断じざるを得ず,これを無批判に採用し評価する意見書,報道,雑誌論考等関連証拠も含めて到底採用できない(判決240頁以下に詳述)。

(3)梅渾命令説,赤松命令説が援護法適用のために後から作られたものであるとは認められない。これに関連して,照屋昇雄は,援護法適用のために,赤松大尉に依頼して自決命令を出したことにしてもらい,サインなどを得て命令書(?)を摸造した旨を話しているが,話の内容は全く信用できず,これに関連する報道,雑誌論考等も含めて到底採用できない(判決189頁以下に詳述。203頁で総合判断。)。

(4)宮村幸延の「証言」と題する親書の作成経緯を,控訴人梅澤は,本件訴訟において意識的に隠しているものと考えざるをえない。証拠上認められるその作成経緯に照らし,「証言」は,家族に見せ納得させるためだけのものだと頼まれて初枝から聞いていた話をもとに作られたものば過ぎず,遺族補償のために梅澤命令が摸造されたものであることを証するようなものとは評価できない(判決194頁以下に詳述)。

(5)時の経過や人々の関心の所在,本人の意識など状況の客観的な変化等にかんがみると,控訴人らが,本件各書籍の出版等の継続により,その人格権に関して,重大な不利益を受け続けているとは認められない(判決273頁以下に詳述)。
http://okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_hanketsu_youshi.html

 うわっ、バッサリだ・・・私、あんまり裁判文章って読んだことはないけど、こんなにバッサリ書くものなのか。
 もちろん裁判官は歴史家ではないし、裁判の判決が史実として権威を持つわけではないし、またそうなってはいけない。それは歴史家と私たちの仕事である。(だがこんなにバッサリされる証言者を引っ張ってきた原告側とその証言を無批判に援用した者は批判すべきだけど)
 しかし、「裁判を通じて隊長が自決を思いとどまるよう諭したことが明らかになった」なんて言うのはどうやっても不可能だと思いますがねぇ。

*1:あまりに否定派の行為がおぞましいのでなるべく聞かないようにしていたけど

*2:座間味、渡嘉敷の「集団自決」の場合、互いに「自決」を手伝いあった島民たちが戦後も狭い地域で顔を合わして生きていかなければならなかったという状況の下、「集団自決」に触れないことが不文律となっていたと言っていいだろう

*3:読んでいて言っているのならさらに問題だが