宮森小学校米軍ジェット機墜落事故より50年

 あ〜、下に予定とか書いてあるのですが・・・・・・今日は50年前に沖縄県石川市(現うるま市)にある宮森小学校に米軍のジェット機が墜落・炎上した日ですので、それに関することを載せときます。
 と言っても以前書いたものの再掲*1ですけど。元々は沖縄現代史を振り返る記事の一つで、2004年にやはり沖縄で起きた大学への米軍ヘリ墜落&米軍による大学占領事件と絡めて書いたものでした。一部修正していますが、よろしければどうぞ。


 1959年6月30日、沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍のF‐100ジェット機が墜落、死者17人(児童11人)という惨事となった。*2
 
  この事件の優れた現場記録として琉球大学の学生による「恐怖と血の代償」というルポがある。私がこれを初めて読んだ時、2004年の沖縄国際大学(以下、沖国大)米軍ヘリ墜落事件の記述かと思いかねないほど似ている部分があって実に驚いた。つまり沖縄の状況は、59年と2004年の45年間でほとんど変わっていない、と言えるだろう。
 同ルポの初出は『琉大文学』*3第17号(1959年)、現在は『思念の砂丘』(中里友豪/沖縄タイムス社/1997年)に収録されている。
 どちらも県外の人には入手困難であろうと思われるので、ちょっと引用が多くなるが、『琉大文学』掲載時のものを元に、54年当時と2004年ヘリ事故および2008年現在の沖縄の現状を分析してみる。



 参考

宮森小学校ジェット機墜落関連
http://history.ryukyushimpo.jp/2007/06/27/153.html
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/mi/miyamori.html
http://www.jca.apc.org/HHK/Kokaishinri/7th/Shinzato7.html
http://www.archives.pref.okinawa.jp/films/2008/04/tv-14.html

沖国大ヘリ墜落関連
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2573/2653/2678/204.html宜野湾市HP)
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/k_index.html沖縄タイムス 基地関連記事内)
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/index.html(沖国大HP内)



宮森小事件の惨状 


 以下に「恐怖と血の代償」の作者が目撃した現場の惨状を紹介する。

 二階に上がる。廊下に穴が空いている。机や腰掛けが散乱して、爆発の物凄さを物語っている。(中略)小さな生命の血が、コンクリートの床一面にこびりついている。その血のしたたりは、出口につながり、そこからずうと階段までつながっている。手をもぎ取られ、足をもぎ取られ、顔のかたちを失い、人間のかたちを失った―奪われた、小さな生命が、父母の名を呼び、泣き叫びながら、最後の力をふり絞って階段までやって来た。血は―そして―そこにかたまっている。
小さな細長いモノ。手らしいモノ、足らしいモノ、頭らしいモノ、はたしかに付いている。だが、ほんとにこれが人間の死体なのか? その細長いモノの横に、大人の頭ほどの、これも黒く焦げた肉塊がある。あちこちに土や灰がついている。はたして、これは人間の一部なのか。一部とすれば……(中略)逃げるようにしてそこを出る。気分が悪い。だが、あの黒い肉塊は、人間のどの部分であったか、いまだにわからない。おそらく、あれをあそこに置いた人もわからないであろう。飛び出した脳髄のイメージが重なる。しかし、あれが頭ではないことは確かだ。
 焼け跡を見る。裸の黒い木。赤瓦の屋根はザクロ。ブリューゲルの絵のように、ブスブスと空いている黒い穴。材木が白骨のように突き出ている。メチャクチャに分解し、破裂した機体やエンジンが散乱している。アーサムーサ(めちゃくちゃ)。

→イメージするための参考写真。当時の良い写真が見つからないので2004年・沖国大ので代替。


焼け跡?
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/image/u-pic/a001.jpg
めちゃくちゃに分解してます。
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/image/u-pic/b005.jpg


あくまで「イメージ」ですよ〜。



再現される光景


 このルポを読んでいると、まったくこれは<いつ>のできごとであったか、と思うような文に出会う。著者が現場に集まっていた人の話を紹介した以下のが典型的だ。


中年の男 なんですネ、頭がいいというんですか、やり方がずるすぎますね。火が空から降ってきた時は総出で鎮火作業をさせたんですよ。それがいったん鎮火すると、縄をはって一歩も中へ入れないんですからねエ。それから、あれよあれよという間に全部片づけてしまってね。この悲惨な現状は沢山の人に見せるべきです。とくに、オエラ方にはね。しかし、なんというか、むごいですね。
 この中年の男が云うことはもっともなことだった。数時間の間に片づけられた焼け野原には、黒い木が立っているだけで、そこから受ける印象も自然希薄になってくる。


もちろん、ここで中に入れてくれないのは米軍のことを指しているのだろう。


縄を張って一歩も入れない、ってもしかしてこんな感じだろうか?
http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2568/2596/2662/4266.html
整地しちゃってます。全部片付けてます。
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/fall_incident/image/u-photo2/u-pic2005.jpg
黒い木が立っているだけですね。(12枚目の写真)
http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=14&id=6979&page=1



 沖国大の時も、宜野湾市消防隊の人達が消火活動をがんばったけど、米軍は火が鎮火するなり彼らを現場から追い出した。消防士達は負傷者の確認(誰か機体の下敷になっていないか)、火災原因の調査など消防の仕事が残っていると主張したが、米軍は入れてくれない。中には消防士達の抗議に対して腰の拳銃に手をかける米兵までいたという。
 それからは知っての通り、大学の敷地内である事故現場は1週間、また周辺の市道も4日間封鎖されることになった。


 ちなみにこの「黒い木と黒焦げの壁」の写真は有名だが、何もこの壁の前に最初からこの木一本しかなかったわけではない。墜落以前、この建物の周辺はホルトやアカギなど30本近い木々が植えられていてなかなか緑豊かだったし、延焼が抑えられたためかなりの木が無傷で残っていた。
 しかし米軍は搬出の邪魔になるとして、すべて伐採してしまったのである。中には明らかに邪魔とは言えない位置にある木まで。もちろんこの木々は大学の財産である。米軍は学長らに対して伐採の通告を行ったが、学長側が「(伐採を)断ったらどうするか」と尋ねると「断られても切る」と答えた。学長らはせめて移植してくれるよう頼んだが、無視された。


 また宮森小学校ではこんな光景も。

警官 彼らの指示ですから
―彼らというと?
警官 …………
―写真くらい撮らせたっていいでしょう。
警官 いや駄目です。中に入っては、私はただ…………
―ただ、何ですか? あなたはいったい、どこの人間ですか?

 取材妨害する警官と著者のやりとり。警官の口ごもる姿からは、なんだか植民地の現地人官憲の悲哀が漂ってくる。


 沖国大の時も米兵による取材妨害が問題になったが、実は沖縄県警に妨害された取材陣もいる。
 沖国大の事故現場は黄色いテープに隔てられていたが、その境界線のすぐ外側で警備をする県警の姿が、米軍を住民から守るための『ガードマン』に見えたとしてもいたしかたあるまい。



変わらない精神

 ところで変わらないのは「光景」ばかりではない。

ただ、基地というものが日常化され、雰囲気の中でしか理解されていない状態に対して、具体的な警告のかたちで迫ってきたことは事実である。このような警告は今までもたびたび現れた。だが、その毎に、それらは時間とともに忘却の彼方へおしやられたかたちになっている。脆弱な意識はもはや必要ではない。


 私事になるが、私は沖国大のヘリ墜落をyahooのニュースで知った。「大学に米軍ヘリが墜落」という見出しを見て、私は最初、イラクのことかな? と思った。次いで米軍の駐留する東南アジアか中央アジアなどどこか遠くの国の話しだと思った。だが、記事をクリックして開いてみれば、他でもない私の友人も多く通う沖国大のことであった。
 ……なぜ、私は沖縄のことだと少しも考えなかったのか。普段、人よりは基地問題について勉強し、その危険性も認識しているつもりだったのに。私は何を油断していたのか。すでに45年前「もはや必要ない」と断ぜられた「脆弱な意識」は決して消えていない。




死神とパラシュート

子供たちはミルクを飲んでいた。子供たちはミルクと一緒に死神を飲んでいたのだ。(中略)死神が沖縄のどこにでもいることを、子供たちはまだ知らなかった。それが、いつでも、どこにでもやって来ることも。

―操縦士は、パラシュートで助かったらしいですね。
めがねの男 そうらしいですね。操縦士も人間です。助かりたい気持ちはわかります。彼にはパラシュートがあった。だが、子供達にはなにがあったでしょう?何もなかった。子供たちにはパラシュートはなかった。
 めがねの男は、そういって空を見上げた。西の空に落ちかかった太陽の光が、雲を彩っている。雲はそのまま絵具を塗ったように動かない。美しく晴れわたった空である。


 おそらくこの文は、的確すぎるほど沖縄の現実を表している。基地と基地のはざまに生きる沖縄人にとって、米軍の事件事故にいつかまきこまれることは、あらかじめ決められた運命のようなものだ。沖縄に生きる限り、誰もそこから逃げることはできないだろう。


「被害者の少女が軽率だった」
「米軍の事故にまきこまれたのは運が悪かった」
「事件や事故なんて沖縄人の間でも起きているのに、米軍に対してだけうるさく言うな」
 こういう言葉は、沖縄では死神がどこにでもやってくるという現実を、あるいは「パラシュート」を持っていない人々がいるということを覆い隠す効果があるだろう。


 一方で、この操縦士以外に「パラシュート」を持っている人々がいる。
 彼らはアジア・太平洋戦争の時「沖縄を捨石にする」という「パラシュート」で脱出して、結果的に地上戦から免れた。また、彼らは「沖縄を米軍に渡す」という「パラシュート」を使って、独立を回復した。そして今でも彼らは「沖縄に基地を集中させる」という「パラシュート」を、「日本の安全保障」のために使っている。
 まあ、気持ちはわかる。「操縦士も人間です。助かりたい気持ちはわかります。」ということだろう。
 彼らだって人間だから、自分の命は惜しいに決まっている。日米安保条約の元、沖縄に基地を集中させて、平和に安全に生きたいという気持ちはよくわかる。でもそれは沖縄の人々だって同じことなのだが……。



 メッセージ「われわれにはパラシュートはない!」


Z機が墜落した。偶発的事故として解決できる問題ではないはずだ。それが、単に一つの事故にすぎないとして片づけることは、そのまま、われわれが生きているいびつな現実を容認することではないか。最近沖縄では、集成刑法*4と呼ばれる死刑法が、施行されようとした。それは、県民の怒りにあっていちおう八月十五日までその施行を延期することになったが、その意図が変更されたわけではない。この際われわれは、集成刑法、あるいはその他の問題が、その発生の地点において、Z機墜落事件と同一であることを、はっきり意識するべきではないか。
 いま一度、あのめがねの男のことばを考えよう。子供たちには、パラシュートはなかった。このことばの持つ意味の重さ。
 われわれには、パラシュートはない!


 この一文は、もちろん著者が59年当時の読者に呼びかけたものである。だが、残念なことに、この呼びかけは、2008年現在でも通用する。
 今回の中学生暴行事件*5でも「基地問題と暴行事件を結びつけるな!」と迫る言説が溢れていた(しかし、結びつけるな、という人はふだんどういうふうに基地問題を考えているのだろうか? って言うか考えているの?)。たとえ周囲がどれだけ切り離そうとしても、私はやっぱり結びつけて考えたい。「われわれにはパラシュートはない」という現実を決してごまかしてはならない。50年近く前から届けられたメッセージはまだ生きている。
 
 そして「パラシュート」を持っている人々に言いたい。
 沖縄に穴のあいた「パラシュート」を渡し、それがうまく使えなかったのは沖縄の人々自身のせいだと言うのはやめてほしい、と。そして願わくば、あなた方の持っている「パラシュート」を自ら捨て「われわれ」と同じ立場に立ってほしいと訴えたい。

*1:ブログ主が以前やっていた「ま/ぶ/い/ぐ/み」というブログに2008年に書いた記事。現在このブログは閉鎖

*2:負傷者は210人(児童156人)、さらに周辺の民家17軒が全焼

*3:琉球大学の学生有志によって発行された文芸同人誌。しばしば米軍の軍政や基地問題を鋭く批判し、米軍当局によって何度も発刊停止処分になったり、作者が退学に追い込まれたりしている。詳しくは、新城郁夫『沖縄文学という企て』参照

*4:当時、米軍が沖縄の住民に対して制定しようとしていた刑法。直接的にこそ言われていないが、米軍を批判した者に死刑を適用することも可能になる法律だと恐れられていたらしい。また、米兵による沖縄女性への性犯罪が実質ほとんど裁かれない状況で、米軍の家族の女性を強姦または強姦しようとした沖縄の男性には死刑を適用するという点も大いに沖縄人の反発を買った。それがあまりに大きかったので、この刑法は結局施行されることはなかった。

*5:この記事を最初に書いた当時、沖縄の女子中学生が米兵に強姦されるという事件が起きており、またこの被害者少女をバッシングする言説がネットを中心に溢れていた