福州琉球館と琉球墓園(福建旅行2)

福州琉球

 琉球館は城外東南部の水部門の外に位置していた。古来、進貢してくる外国人に省城内部をうかがわせないため、諸藩貢使の館舎は必ず城外に置く慣わしであったという。明代高岐の『福建市舶提挙司志』には、琉球館は前庁が三間(室)、渡唐役人の寝室である臥房が六間、船員寝室の夷梢臥房は二七間、中国側警備兵士の詰め所である軍士房が二間あったことが記せられている。琉球人は昼は自由に門外に出ることが許されたが、夜は外での活動は一切許されず、福州琉球館での起居を命じられていた。貢使をはじめとする一行の中国滞在中の食料などの基本的な応接費用は、公の身分として中国側が負担していた。
 琉球館内には、さらに琉球側の祭祀施設である天后宮・祟報祀・土地祠があった。祟報祀には中国で客死した者の位牌を安置し、土地の守り神である土地公を祭っていた。進貢船が無事に中国へ到達すると、帰国するまでの間、媽祖の御神体琉球館の天后宮に安置された。(『琉球王国』赤嶺守)


 福州の琉球館は、貿易の中心がそれまでの泉州から福州に移った明代にでき、20世紀初頭まで存在した。近代においては琉球王国の日本への併合に抵抗し、中国で王国復興の活動をした亡命琉球人(脱清人)たちの拠点となった。日清戦争で清が敗北すると琉球復興運動は頓挫し、脱清人たちや中国に渡ってきた人々は福州琉球館の周辺にタバコ工場などを作り、現地で新たな生活を始める。*11937年に東恩納寛惇が調査に訪れた時にはまだ琉球館は残っていたが、戦後派すっかり跡形もなくなってしまったという・・・・・・。

 実は私もずっと琉球館はすでに存在しないと思っていた。でも、まあ、会った場所をなんとか探し当ててみるだけでもいいか、と思っていた。が、ある知人から80年代に再建されているとの情報をもらった。それでも教えてもらった中国のサイトを見ると、どうやら再建されているのは門だけらしい、ならば開館日とか特に関係なく行けば見られるのだな、とあさはかに思い春節期間の切符を買ってしまったのだ・・・・・・どうもきちんと内部も資料館として整備されているらしい。当然、開館日も閉館日もあり・・・・・・春節期間に開いている可能性は薄い・・・・・・
 と、かなり失敗した日程を組んでしまったのだが、それでも一縷の望みをかけて行ってみた。

 さて、琉球館は中国史の中ではかなりマイナーな部類に入る史跡だが、驚くことに福州市内の地図に琉球関連史跡で唯一載っている。ただし「琉球館」ではなく「柔遠駅」という名前で。
 沖縄では「琉球館」という名が有名だがこれは通称で、正式名称は「柔遠駅」なのである。これには「遠方の地をやわらげる(四方の国を中国的秩序の中に組み込む)」という意味があるらしい。

 場所は「国貨西路」を東に向かって(「国貨東路」に向かって)左側の道を行くと、トイレの看板があるので、そこを左に曲がった路地・「琯后街」の突き当たりにある。ちょうどこの「国貨西路」を挟んで万寿橋の向かい側にある路地、と言ってもいい。万寿橋からも徒歩10分以内で着く。
 かつての琉球使節も貨物を持ってあまり歩くことのないように、荷揚げ場所を万寿橋にしたのだろう。


 そしてこれが「琉球館」=「柔遠駅」

 とりあえず扉を叩いてみたが・・・・・・まったく音沙汰はなし。やっぱり正月早々開いていないか(泣)。


琉球館の周辺。

上の写真の右側に写っているのは「日中友好の碑」。・・・・・・でも「琉球館」と日本ってまったく関係ないんじゃないか、とちょっと思った。まあ、歴史的に見れば「中琉友好の碑」が正しいとは思うが、そう書いてしまうといろいろ角が立ちすぎるんだろうな・・・・・・。
 ちなみに今は福建省の省レベルの文物保護単位に指定されている。省レベルなんて、そんな大層なものだったのか!

 その後、中を見れなかった悔しさからホテルで電話番号を調べてもらい、開館日を確認した上でまた福州に来よ
うと思ったが・・・・・・なぜか「この番号は現在使われていません」のアナウンスが(泣)。

内部はこちらの旅行記を参考にしてください。
http://4travel.jp/traveler/ryukeimi/album/10324881/


行き方

タクシー:「琉球館」「柔遠駅」と言っても分かるかは微妙。「国貨西路、南公園」と言って徒歩が無難
バス:「南公園」下車

国貨西路→東に向かって左側の道を歩く→トイレの看板を左に曲がる→「琯后街」を道なりに2,3分ほど歩く→到着


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※Aの場所ではありません


琉球墓園


 続いて、福州で客死した琉球人たちを葬った「琉球慕園」へ。

福州琉球館の一角には、異郷で人生の終焉をむかえた琉球人たちの霊を祀る祭祀施設として、一六九一年に「祟報祀」が創設されている。祟報というのは、異郷にて客死した者の勲功を録し、英霊を慰める意味で撰ばれた名号であるといわれている。一九三七年一月に、福州琉球館の調査に訪れた小葉田淳によれば、祀堂には約五〇〇の位牌が安置されていたという。また、小葉田と同じころ琉球館を訪れた東恩納寛惇は、過去帳の記録で五八七人の埋葬者を確認している。福州には南郊また東郊などに琉球人墓群があり、死亡するとそこに葬られていた。(同)


 私が目指したのはおそらく「南郊」の琉球人墓園だったと思う。他にはどこにあるのかわからなかった。

 例によって市内地図には載っていないが、閩江南岸の福建師範大学の裏手にある「楼後街」をしばらく行った所・・・・・・これまたずいぶん説明が困難な場所にある。
 とりあえずタクシーの運転手に「琉球墓園」と告げてみたが、やはりわからないらしい。しかし、タクシー仲間にいろいろ聞きまくってくれて、道にも迷ったが何とか到着。


これが「琉球墓園」



しっかりと「琉球墓園」の文字が!

 
 だが、やはりというか何と言うか、しっかり門が締まっていた! でも、なんだか正月とは関係なく締まっている雰囲気が・・・・・・。
 仕方がないので近くの建物の外階段に登って、そこから中を覗いてみるといくつかの墓が確認できた。・・・・・・一応、墓なのでなんとなく写真を撮るのははばかられた。

 墓は沖縄南部によくある亀甲墓を小型にしたような形であったが、沖縄のものほど墓本体が丸く膨らんでいる形をしていない。中国南部の墓の形も沖縄の亀甲墓とよく似ているが、やはり墓本体の丸みが沖縄のものほど顕著ではない。ただし墓の前に楕円形の広い空間*2を確保しているのは同じである。

一七世紀末以降には、首里那覇の士族の間で、造営に風水師が関与した外形が中国の福建の墓に類似した亀甲墓が造られるようになる(同)

 ということは、この「琉球墓園」の墓は沖縄風のそれを再現したわけではなく、その原型となった地元・福建の墓だということだろう。
 墓の周りにはガジュマルなどの木がうっそうと茂り、昼でも薄暗い。静謐な空間というよりは寂しい場所のように思えた。ただずっと放置されているわけではなく、おそらく何ヶ月かに一度くらいではあろうが、誰かが管理してくれているような様子である。

 しかしいったい誰が管理しているのか、連絡先はどこなのかも「琉球館」以上に手がかりがない。とりあえず鉄格子ごしに写真↓

 墓はこの赤い門のさらに奥にあったが、手前にもいくつかある。

 ・・・で、その周辺だが↓


 なんかシュールな看板が。この一帯は美術学生用の美術教室(「美術培訓所(基地)」と言う)やアトリエが集中している場所らしい。この看板の絵はたぶんインパクト重視の宣伝用か文革アートをアートとして扱っている美術教室・・・・・・かな?

 周辺その2↓ これはちょっと離れたところだったかな?


 ところで「琉球墓園」には、清末期、琉球王国を救うため清に渡った琉球人つまり脱清人たちも眠っているのだろうか? それを確認できなかったのがやはり残念だ。
 「琉球墓園」は少し小高い場所にある。もしかしたら海は無理でも閩江くらいは見えるのかもしれない。せめて、故郷へ繋がる大河を彼らが眺めることができたら、と思う。


行き方

タクシー:「琉球墓園」と告げて行けるかもしれないが、微妙。
バス:60番線の終点(起点)である「省新華技術学校」で降りればすぐ目の前にある。60番線は琉球館近くの「南公園」からも乗れる。



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*1:こんなエピソードがある。復帰後、福州琉球館の調査に来た多和田氏は近所の中国人から人探しを頼まれる。戦前、貧しかったため近くの琉球人の家に女の子を赤ん坊のうちに養子に出した。しかしその琉球人はその後帰国してしまい、子供の行方もわからなくなった。実母はずっとそのことを悔やみ、死ぬ前に一目子供に会いたがっている。なんとか探し出してくれないか、というものだった。不可能に思われた頼みだったが、奇跡的に子供の行方はわかった。彼女はその時まで自分が中国人だとは知らずショックを受けたが、その事実を受け入れた。(『福州琉球館物語』/多和田真助/おきなわ文庫)

*2:これは風水で言う財富などに関連する「明堂」という空間である。墓の前にこの空間を作るのは、子孫の繁栄を願う意味があるのだろう。また墓の前の空間と入り口を女性器に、墓の内部を子宮に見立て、女性の胎内に戻った魂が再び生まれる、という考えもあってこのような形にしている