泉州海外交通史博物館と天后宮(福建旅行3)

 泉州は、泉州湾の奥の晋江の左岸に位置し、唐代には多くのイスラム商人が来航して外国人専用の居留地「蕃坊」を拠点に交易活動をしていた。南宋以降、都市人口が五〇万人に達し、元代には中国第一の南海貿易港として世界的に有名となり、マルコ・ポーロやイブン・バットゥ−タらが「ザイトン」とよんで、世界一の繁華な港としてその盛況を伝えている。(『琉球王国』赤嶺守)

 泉州の港は、十五世紀以降、上流からの大量の土砂の堆積によって晋江の海底が浅くなり、大船舶の出入りに適さなくなったため、貿易港としての地位をしだいに福州や厦門(アモイ)にゆずり、(中略)進貢船の入港先そして進貢道の起点も泉州から福州へと変わっていった。(『琉球王国』赤嶺守)


 泉州は福州と同じく福建省にある都市で、福州よりは少し南に位置する。上記のように宋から元の時代に貿易港として最盛期を向かえ、海のシルクロードとも呼ばれたと言う。

泉州海外交通史博物館


 その泉州の貿易の歴史を伝えるのが市内にある「泉州海外交通史博物館」。中国で唯一の貿易史と船の専門博物館として有名である。

泉州海外交通史博物館

 博物館の外観は実は船の形を模しており、正面の屋根は帆に見立てているらしい。この本館の他に、泉州市内のイスラム文化の紹介に特化した別館がある。

 イスラム諸国との交易の次に重点が置かれていたのが、実は琉球との交易の紹介で、わざわざ専用コーナーも設けられていた。2階は歴史上や各地域の船の模型の展示がなされており、冊封時に中国から派遣される官僚が乗る船の模型もあった。船の名は「封船」と言う。

 琉球へ向かう中国の冊封使が乗った封船

 また沖縄県浦添市から寄贈された「琉球民俗活動場景」の模型も。ただ何の説明もなかったので、これがいったい何の場面なのかわからない。国王らしき人の姿も奥に見えるから、おそらく中国に来た進貢使節ではなく、沖縄での冊封儀式を表しているのではないかと思うが・・・・・・。

浦添美術館寄贈の琉球民俗活動場景


 さて、その琉球のコーナーには、泉州琉球館とも言うべき「来遠駅」のことにも触れられていた。福州と違い、泉州では琉球館は再建されてはいないようだ。
 私はここに来るまで思い至らなかったが、確かに泉州が宋元時代の琉球の拠点であるなら、当然ここにも琉球館はあったはずである。先に行った福州であまり良い結果にならなかったこともあって、ぜひとも泉州琉球館があった場所だけでも行ってみたくなった。泉州についてはよく調べてこなかったが、幸い場所の手がかりとなる写真も展示してあった。
その手がかりがこれ(↓)である。

来遠駅があった場所の写真


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあ、川沿いにあるのはわかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 当然ながらこんな写真で辿り着けるはずもない。そこでダメもとでここの博物館の学芸員に聞いてみた。


私「すいません、『来遠駅』ってどこにあったかわかりますか」
学芸員「ああ、『来遠駅』ね。天后宮の南のあたりにあったんですよ」


 ……………………即答した!!! 聞いておいてなんだが、まさかわかるとは、しかも即答してくれるとは思わなかった。
 そりゃ福州みたいに再建されて省レベルの保護文化財になっているなら、学芸員が知らなきゃおかしいが、泉州みたいに跡形もないそんなマイナーな場所を即答してくれるなんて。「はっ?」とか言われることを覚悟していたのに。
 すごいよすごいよ「泉州海外交通史博物館」の学芸員。やっぱり学芸員はこうでなくちゃ、と思う。(感動したのでしっかり書いておく)

 で、その学芸員さんに泉州の地図を見せて、どのへんか教えてもらったのだが、地図では示しにくい場所だという。だが、学芸員の言葉から泉州市内を多く流れる晋江のどの支流か特定できたので、その川沿いに沿って探して見ることにする。すでに跡形もないので、場所の特定は上のいったい何十年前のかわからない写真だけだが(汗)。

天后宮


 というわけで、翌日『来遠駅』を探しに行く前に、その近くにある天后宮に行ってみた。

天后宮

 天后とは、中国南部の沿岸地方・台湾・海外架橋に信仰されている航海の女神・媽祖のことで、天妃とも呼ばれる。しばしば観音さまの生まれ変わりとも見なされ、琉球でも「ブーサガナシ(菩薩さま)」と呼ばれていた。
 福建にある湄洲島はあとに女神となった女性・林黙娘の生まれ故郷なのである。

 民間伝説によれば、宋の時代、湄洲島に住む漁民・林家夫妻が子供を授けてくれるよう天に祈ると女の子が生まれた。この娘は赤ん坊の頃からあまり泣きもせずめったに口をきかないため林黙娘と呼ばれたが、すばらしく聡明で多くの学問を身につけた。さらに神通力を発揮し、遭難した船を多く救ったので、漁民や船乗り達からあがめられるようになった。彼女は28歳で昇天したが、その後、神に昇格し、慈悲深き媽祖として難破や海賊の襲撃などあらゆる危険から航海の安全を守ってくれるのだという。
 歴史学者によれば、この民間伝説は、彼女が医者でありその医術で多くの海難事故にあった者を救ったことを示しているのではないかとしている。

 中国の南部沿岸部には多くの媽祖廟(天后宮、天妃宮)があり、昔から漁民や航海者はもちろん多くの民衆に信仰されている。またこの女神は航海安全だけではなく、護国の女神として祭られることもある。現在は特に台湾で信仰が盛んで、林黙娘が生まれたとされる日には信者が各地の媽祖廟に詣でるため大変な騒ぎになるという。
 媽祖信仰は華僑のネットワークによって東南アジア各地にも広まり、琉球にもかつて天妃宮があった。中国に渡航する琉球人は媽祖の加護を求め、出発の際には久米村の天妃宮から媽祖像を船内に移し、中国に着いた際には琉球館の天后宮に祭ったという。当然、泉州や福州の天后宮にも無事に海を渡れたことを感謝し、また無事帰国できるよう祈りに行っていたことだろう。
 また観光案内書によれば、琉球冊封に行く冊封使たちもこの泉州の天后宮で媽祖の加護を祈ったという。
 そういう意味で、ここも琉球ゆかりの場所だと言える。


本堂の前

 中国国内では、一番立派なのは湄洲島の天妃宮だが、泉州のも歴史あるためなかなか立派なものである。
 媽祖像がある本堂の中は撮影禁止ではないと思うのだが、訪れる人々が熱心に祈りを捧げているので、写真を撮るのははばかられた。なので、本堂の前の線香をあげる場所だけ。
 ここで線香を上げるのだが、その横にある黄色い台に人々は跪き頭を何度か下げたり、線香を掲げたり、顔の前または頭の上で手を組んでそれを軽く揺すりながら祈りを捧げる。本堂の中にも黄色い台があり、同じく祈りを捧げられる。

 本堂の中には巨大な媽祖像が置かれている。姿は大きいが、表情はいかにも慈愛に満ちていた。また中国語で「南無阿弥陀仏」のお経が延々と流れており、なかなか荘厳な場所であった。
 
 外には日本で言えば、願い事を書いておく絵馬のようなものがあった。ただこちらは木版に書くのではなく、瓦に書くらしい。

参拝客が願い事を書いた瓦

 やはり台湾からのものが圧倒的に多い。

 さて、ここに来てふいに思いついたことがある。ここがかつて琉球人も祈りに来たことがある場所なら、その縁に頼って媽祖様に『来遠駅』の場所が見つかるようお願いしてみよう、と。
 祈りの仕方はわからないが、とりあえず見よう見真似で祈ってみて、『来遠駅』が見つかるようお願いしてから出発した。

 その結果は、どうだったかと言うと・・・・・・
 その日の夕方には、私は媽祖様が本当に慈悲深い女神であることを理解し、その信者になろうかと思うような結果が出た。