『沖縄の市場 文化誌』


沖縄の市場文化誌―シシマチの技法と新商品から見る沖縄の現在

沖縄の市場文化誌―シシマチの技法と新商品から見る沖縄の現在

 那覇の市場通りにある「牧志公設市場」は、特異な市場らしい。確かに一種の混沌とした何かがあることは認めるが、築地市場に行ったことがある私としては規模が小さすぎてどうして観光地としても成り立てているのかさえ不思議だった(言っておくが、決して牧志公設市場が嫌いなわけではない。むしろ好きだがそこまで特徴ある市場だとは認識していなかった)

 しかし本書をはじめ、他の全国市場紹介みたいな本でも牧志公設市場は特異な市場だと書かれていた。

 売り手と買い手の距離の近さ、そこで交わされる濃密なコミュニケーション、しかも商品である肉を買い手が直接触れることができるなど、言われてみれば珍しいことなのかもしれない。


 本書はその「那覇の台所」とも言われる牧志公設市場の中でも「シシマチ(精肉市場)」の一角に興味を持った著者が、実際にそこのある肉屋に入れてもらい、買い手と売り手のやりとりを記録してデータ化し分析を試みた本である。

 前半では牧志公設市場の歴史や豚の解体から始まる一日の流れ、売り手と買い手のコミュニケーション、店同士の関係などについて論じられ、後半ではブランド豚の「アグー」「海ぶどう」「島バナナ」などがどのように開発・商品化・流通したか/しなかったについて論じる。言わば、「牧志公設市場」を通じて沖縄の商業文化や生活,観光そして市場の今後を論じている本なのである。


 ここで「牧志公設市場」についてもう少し詳しく説明すると、那覇の「市場通」という一種のアーケード街にある屋内市場である。あまり広いとは言えない構内には180*1近くの業者が詰め込まれ*2ており、鮮魚屋は鮮魚屋で、精肉屋は精肉屋でそれぞれ固まっている。二階には下で買った食材を調理してくれる食堂が何軒もあり、沖縄特有の食材が手に入り独特の雰囲気が味わえるということで今や観光案内書に必ず紹介されている観光名所にもなっている。


 本書は牧志公設市場の特異性をこう記している。

 牧志の独特な光景は、売り場ごとに現れる圧倒的な色彩と、売り手と買い手の間隔だろう。売り手が腕を広げれば売り場のすべてに手が届いてしまうような牧志は、まさしく売り手の手の中にある。(中略)中でも、肉色で上から下まで、通りの端から端まで埋め尽くされたシシマチ、精肉売り場には圧倒された。こぎれいにスライスされ、値札をつけられ、冷蔵ケースに収まっている精肉店、清潔であることが何よりの価値だと主張しているような精肉店しか知らなかったわたしにとって、かたまりのまま値札もなくケースの上に積み上げられた豚肉と、その上から見下ろす売り手の列は圧倒的だった。
 この市場はどうして成り立っているのか?どうして同じものを同じ値段で売る店が何十軒も共存できるのか?売り手と買い手はどうしてああ長々と話をするのか?清潔第一のはずの売り場で、なぜ肉はケースの外に並んでいて、しかも客は肉に触ることを許されるのか?
(中略)シシマチで肉を売るということは、豚肉ひとつひとつの特徴を把握しながら、個性的で肉にうるさい買い手たちとを組み合わせていく作業だった。そのために、細かい部位名、シーブンと呼ばれるおまけ、顧客の個人情報などを駆使しなければならない。

 著者はとある精肉業者の店舗でしばらくやっかいになり、売り手側からこの市場のルールを観察していく。
 ところで図書館学には「すべての本をその読者に」*3という考え方がある。ある本をそれを必要としている人に結びつける(巡り合わせる)ために尽力(本の選定,見つけやすい配列,リクエストに応える)するのが図書館員の使命だという考えだ。そしてここ「牧志公設市場」では本ならぬ「すべての肉をその買い手に」が実践されている。
 以下、著者が観察したその事例をいくつか紹介してみよう。


・注文をする

 買い手は店を決めて立ち止まると、まず、どの部位を買うか決める。(中略)「サンマイニクください」というのがスタンダードだが、黙って商品に触ったり、単に視線を走らせる買い手もいる。そうするとイノエさん*4は、「サンマイニクですか?」などと声をかける。「おつゆにするの」「お重つくる」と料理名で注文する人もいる。この場合、おつゆにはBロース、お重にはサンマイニクが選ばれた。店に来てから「今日は何しようね」と考え出す人もいる。(中略)
 売り手の裁量が必要となるのは、注文された部位が売り切れていたり、その店で扱っていない場合だ。そのようなときは、まずは売り手は買い手に料理法をきいてから、その料理法に適した他の部位を勧める。例えば、柔らかくて脂身が少ないヒレを注文する買い手には、同じく柔らかくて脂身が少ないグーヤーヌージを勧める。(中略)
 馴染みの客の場合、「ない」と断ったり、他の店にまわすと、邪険にされたと思われるかもしれない。まずは、隣の店に、「ソーキ、ある?」などと声をかける。商品を手渡してもらい、隣の店の値段で(といってもどこの店もほぼ同じなのだが)売って、受け取った代金を隣の店に返す。チブル(頭)、血など、店には常備していないめずらしい商品のときは、店が空いていれば、売り手が他の店から探してきて売ることもある。


・肉を選ぶ

もっとも知識が必要なのは、サンマイニクの選択である。サンマイニクは、脂と肉と皮が層になったものであるが、肉と脂の層のできかたはそれぞれのサンマイニクで違っていて、しかも表面に見える層と内側の層は同じではない。売り手はサンマイニクの外見から内側の層の状態がだいたい想像できるという。(中略)
 他県ではあり得ないことだが、素手で生肉に触れることはシシマチの買い手の権利である。ショーケースの中に商品を入れないのは、冷蔵の必要もないほど回転がよく新鮮である、と表現する以上に、触って肉付きや固さを確かめないと気がすまない熟練した買い手のためだ。部位によって、買い手が触ることが多いものと、ほとんど触らないものがある。(中略)肉付きに違いのある部位や、店に酔って特徴のある部位がよく触られるらしい。


・量を決める

商品が決まると、どれだけ買うか、量を指示しなくてはならないのだが、シシマチでは量の注文の仕方も実にさまざまだ。(中略)店が恣意的に切り分けたかたまりや、特定の部位をまるごと注文する客もいるし、売り手が適当だと思う量を秤にのせるまで黙っている客もいる。ほかには「1000円分ください」という客もいるし、「トンカツ四枚」といった注文、「5人分」といった注文もある。なかには「重箱一つ分」、「一切れ」、「あるだけちょうだい」など、ユニークな注文をする客もいる。驚いたのは、「たくさんちょうだい」という注文だった。「たくさん」という感覚が、売り手と買い手で共有されている(べき)と、買い手は考えているらしいのである。どのような注文に、イノエさんは動じず、適当に按配して見せ、ほとんどはずさないのが実に不思議であった。


・料理方法を習う

 作業のあいだ、売り手と買い手はさまざまなおしゃべりをする。買った商品の上手な料理法や取り合わせ、行事食のしきたり、贈答品か否か。(中略)
 旧盆が始まる4日前に、女性客がひとりでやってきた。「初盆だけど、人に頼もうかね。自分でつくろうかね」とつぶやく。イノエさんは、「自分で作ったほうがおいしいよ。できるさ。サンマイニクを煮しめて、かまぼこを供えて、こんぶを炊いて、これで終わりよ」とお重の作り方を教える。「ナカミの吸い物も・・・・・・」「ナカミはそっちの上等なのがいいよ。自分でつくったほうがおいしい。頼んだら、五千円もとられるよ。お盆は特別よ」と励ました。(中略)すると、隣に立っていた別の年配の女性が、さらに作り方を教えだした。市場は、食文化の学校の役割も果たしている。特に、年配の女性の売り手はそのような知識を期待されている。
 客の個人情報も重要な会話のポイントだ。住所、家族、仕事、近況、共通の知人などは、売り手と買い手が個人的に親しくなり、また、売り手が買い手の事情を知ってより個人的なサービスを可能にするために重要なのだ。遠くから通ってくれる買い手には「遠くからありがとう」と「バス賃」をおまけする光景も見られた。

 と、長くなったのでここまでにするが、本書は他にも市場の店同士の関係、あるいは市場の関係者を商売対象とし市場に出入りする人々に触れたりしていて、「牧志公設市場」という小宇宙を活写している。


 後半は一度は絶滅した「アグー」豚に復活や「海ぶどう」商品化の歴史、「島バナナ」の値段はなぜ高いままかなどについて論じられ、それぞれに関連した人間ドラマも展開されている。

 文章は読みやすく、それぞれのテーマの設定も魅力的である。お勧めの一冊。

*1:本書より。2002年のデータ。

*2:まさしく詰め込まれている

*3:ランガタンの図書館学五原則

*4:著者が入れてもらった店を切り盛りする女性