『福州琉球館物語』(多和田真介/ひるぎ社)


※本書はすでに絶版で出版社も倒産しており、入手は困難です。古本屋、図書館の相互取り寄せサービスをご利用することをお勧めします。
※このエントリーは本書が手元に無い状態で記憶だけで書いた部分があり、細かい箇所に間違いがあるかもしてません。



 かつて沖縄が琉球王国だった時代、中国福建省の福州にある琉球*1朝貢関係にある中国での琉球使節や商人の活動拠点であった。

 本書は那覇市の教育関係者である著者が、福州市との交流の中で関わったできごとのうち琉球館にまつわるものを中心にまとめたもの。
 琉球館に関する歴史事項や研究にも多少触れられているが、それら過去の事実関係が主題とはなっていない。むしろ、琉球処分によって王国が消滅し、中国に渡って琉球館を拠点に王国復興運動をした脱清琉球人たちの運動も収束して歴史の表舞台から姿を消し、屋敷跡さえ跡形もなくなった琉球館が今なおその周辺に住む(住んでいた)琉球人や中国人、そして著者の運命に影響を与えていること、つまり過去と現在のリンクによって生まれた「物語」が語られている。



 その著者が出会った思わぬ縁に触れる前に、本書を元に福州琉球館の変遷を紹介。
 福州琉球館は明や清に朝貢に来る琉球王国使節団の宿泊場所であった。彼らは外交官であるが同時に王国の商売のためにも訪れており、使節団の一部が福州から皇帝に拝謁するため北京を目指している間、一部は琉球館を拠点に貿易を行った。
 やがて明治維新後の日本によって王国が滅亡に追いやられるのと前後し、琉球館も日本によって閉鎖を求められた。王国の危機に際し、琉球人の一部は清国に救援を要請するため密航して琉球館を拠点に清政府に嘆願運動を繰り返した。王国が滅亡した後も続々と日本の支配下になった沖縄を監視の目をくぐって脱出した人々(脱清人)と呼ばれる人々が琉球館に集い、王国復興運動に参加した。しかし、日清戦争で清国が敗北したことを機に復興運動は力を失う。
 その後、琉球館には沖縄から商人や徴兵拒否者が住むようになり、特に商人たちによって琉球館とその周辺にタバコ工場が建てられ、琉球人のコミュニティーができあがった。その後、中国の歴史の激動の中でいつしか琉球館もコミュニティーも失われ、80年代に著者が訪れた際には当時のおもかげを残すものは何一つなかったという。


 しかし、そこで著者は不思議な出会いをする。交流事業の一環で福州を訪れた際、琉球館跡地の周辺に住む中国人の一家から、かつて琉球館に住んでいた琉球人に養子に出した女の子を探し出してほしい、と頼まれたのだ。その養子先の琉球人一家は、まだ幼いその養女を連れて日本に行ってしまい、以来音信不通なのだという。その子の母である中国人女性はすでに高齢で死ぬ前にどうしても娘のゆくえを知りたい……という。
 そう言われても著者にもなんの心当たりもないが、ともかく引き受けざるを得ない状況だったためその養女の行方を捜すことになってしまった。ほとんど絶望的な話だったが、当時の琉球人コミュニティーの顔役だった人物を見つけたことから、養女が大阪に渡ったことを突き止める。
 その顔役ははっきり真実を伝えたほうがいいと、彼女が本当は中国人であること,本当の父母が福州にいて会いたがっているとの手紙を彼女に出した。彼女は何も知らなかった。その手紙ではじめて自分が中国人だと知らされた彼女の返事にとまどい以上にあったのは怒りであった。「平穏に暮らしてきた私たち親子になんの怨みがあってそんなことを言うのですか」と書いてきた彼女だったが、何度か手紙をやりとりするうちに事実を受け入れ福州の家族に会いたがるようになったという。

 私は以前、岡真理の『記憶・物語』で似たような話、18歳になるまで自分は日本人だと何の疑問も持たず生きてきたのに実は在日韓国人であったことが判明しそのことをどう捉えていいかわからず「ぼくには歴史というものがわからなくなった」と言った学生のエピソードを読んだことがある。
 その学生そして自分が中国人だということを知らなかった養女のエピソードを考えると、私たちが自分が「○○人」であるということがなんと不確かなことであったと考えざるをえない。だから一部のネット上で無邪気に本質主義的に中国人や韓国人をあしざまに罵っている人に対しても、この人たちはもし自分が実はその中国人や韓国人だったという事実が判明したらいったいどうするのか、いやそれ以前にそんなことなどありえないとばかりに一分たりともその可能性を考えたことなどないとしか思えないことがかえって不思議だ。自分が本当に日本人かどうか、実は中国人や韓国人かもしれないなんてことは、親が黙っていて戸籍を確認したことがなければわかったものではないというのに。


 さて、著者はこの養女の他にもう一人琉球館にまつわる人探しをすることになるのだが、それは置いておいて、もう一つ興味深いエピソードとしてある徴兵拒否の琉球人の物語も本書で紹介されている。
 明治時代、本土より遅れたものの沖縄にも徴兵制が敷かれるようになった。そして本土と比べ徴兵拒否する者が多かった。その方法はハブにかまれたり、障害が残るような怪我をわざとして徴兵不適合者となるなどが知られているが、もう一つ国外脱出という方法があったことを本書で知った。
 著者はある琉球人のエピソードを紹介している。徴兵を忌避させるため、父親が子どもたちを福州へ密航させた、という話である。

正忠氏渡福の直接の動機は、徴兵忌避であった。日露戦争を前に、また軍国主義国家への過程で、時の明治政府は日本の一県となった沖縄県人からも、兵役徴集に乗り出した。ところが、当時の沖縄の一般的な風潮として、国家への忠誠心は薄く、忌避が相次いだとのことだ。心情的には明治政府への忠誠より、むしろ中国(清朝)との結びつきが強かったのである。先に引用した、高良さんの記述「琉球処分に反対し、王国の復活を中国に訴えるために続々と密航してくる亡国の旧臣たちの住みかとなる」、いわゆる脱清人の存在が、このことを物語っている。
 最初の渡福は正忠氏の父、正直氏の指示であった。ここで、正忠氏渡福の動機を見ると、沖縄県民の中国に対する心情→明治政府に対する忠誠心の薄さ→反発→徴兵忌避の図式が成り立ち、その時代背景として、琉球廃藩置県→日本近代史の夜明け→軍国主義の強化→近隣アジア、中国、朝鮮への侵略ーが重なり合う。渡福の動機は徴兵忌避の単純なものだったが、廃藩置県後の琉球は日本の近代史、アジア史の動きと、きわめて複雑に絡み合っていたのだ。

 しかし、兄弟の乗った船は難破し、ベトナムへとたどり着く。兄弟は何とか感じを用いた筆談で福州に行きたい旨を告げ、現地人たちの助けで香港へ送られる。香港に着くと、日本領事館による強制送還から逃げるためいそいで脱出し、自力で一路福州に向かい、無事琉球館に受け入れられたという。

 本書に描かれた兄弟の琉球、いや、日本国家による徴兵忌避からの苦難の逃避行は、ただ一個人の体験に留まらず、東アジアの歴史のダイナミズムと密接に絡まっている。(しかし、このような琉球人の記録は歴史の中に埋もれ過少評価されてきた、と近年出版された『琉球救国運動』では指摘されている)
 また清国にある琉球館が、王国を滅ぼされ日本の「臣民」となった琉球人たちにとって一種のアジールとなっていたことが伺われる。もちろん大部分の琉球人たちにとって福州は一生縁の無い地であったが、それでもいざという時に避難すべき場所があったということは大きな意味があると思う。


 本書ではこのように琉球館という場を軸にして、近代の東アジアの中で、自覚的にあるいは当人さえも知らぬうちに帰属の不確かな存在となった者たちの物語が語られる。その本書が近代以前、朝貢のために中国に渡り、北京を目指す途中のさまざまな地で客死し、異国の地に埋葬された琉球人たちの墓を訪ねる話で終わっているのもなかなか印象的である。
 
 琉球館の史料としてはいまいちだが、本書は東アジアの近現代史と個人の歴史が有機的に絡まりあっていたことを感じる上で興味深い内容になっている。


 最後に、一言感想を付け加える。著者は中国を訪れた際、中国人たちから「日本人」として見られることに対し、以下のような違和感を表明している。

ところで、この「リーベン(日本)」だが、毎度のことながら或る種の惑いを覚える。「リーベン」と呼ばれる度に、心の中で「いや、沖縄、琉球」とつぶやくのだが、言葉を呑み込んでしまう。この惑いの気持ちはこちら側だけのもので、福州の人々は「沖縄」に対して、特別な感情を抱いているようにも見えるが、最終的にはやはり「リーベン」ということになる。

 この「惑い」、なんか理屈じゃないけど、私も感覚的に「あ〜わかるわかる」と言いたくなる。

*1:ブログ主が琉球館を訪ねた時のエントリは→http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20100303/1267610390、本書では「跡形も無い」とあるので、おそらく復元されたものであろう