第一章「グスクの時代」
中国にいる間に福建省の省都・福州に行ってみようと思っている。福州はかつて琉球王国の中国における拠点だった場所なので、一度は行ってみたいと思っていた。
とは言っても、私は実は中国と琉球の関係史をきちんと学んだことがない。いい機会だと思ってちょっと以下の本を元に勉強しているのだが、メモをかねてしばらく章ごとにまとめてみたいと思う。
琉球王国 -東アジアのコーナーストーン (講談社選書メチエ)
- 作者: 赤嶺守
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※以下はブログ主による要約。
1 東アジアの交易体制とグスクの誕生
沖縄の歴史は先史時代を経てグスク時代となり、次いで戦国時代、琉球王国時代へと繋がっていく。
「グスク」は一般に「城」と表せられるが、正確には日本の戦国時代の石積みの城壁に似たものに囲まれた遺跡を指す。
戦史時代、奄美・琉球諸島では原始的な狩猟・漁業・農耕生活が営まれていたが、一方で九州や中国との小規模な交易が行われていた。
グスク時代の始まりについては諸説あるが、およそ11世紀〜12世紀頃だと考えられる。初期グスク時代には「アジ(按司)」と呼ばれる地域の支配者層が各地に誕生。13世紀には周辺の「アジ」を多数取り込んだ「按司添(おそ)い」*1と呼ばれる勢力が各地を統合していく。
中国では元朝の末期に当たる14世紀半ばには、沖縄本島は北部の北山王,中部の中山王,南部の南山王の「三山王」が互いに覇を競い、最終的に中山王・尚巴志氏によって統一され、第一尚氏王朝が成立する。第一尚氏王朝は家臣の金丸氏のクデーターによって短命に終わり、第二尚氏王朝が成立する*2。15世紀後半には第二尚氏によって中央集権体制が確立され、「グスク時代」は終わりを告げる。
11世紀に日本で書かれた『新猿楽記』には、日本の北から南まで交易をする八郎真人(はちろうまひと)*3という商人の首領のことが記されている。彼が扱う商品には、琉球諸島で産出する硫黄や夜光貝も含まれた。硫黄は火薬や薬品として、夜光貝は貴族や仏殿の装飾品として需要が高かった。13世紀の大型グスクの遺構などからは中国製磁器や九州産の石鍋、琉球諸島では産出しない鉄なども発掘され、これらの日本からの商品と硫黄や夜光貝が交換されていたと考えられる。持ち込まれた鉄によって農具の改良が行われ、鉄製武器が製造されたことはアジという支配者層が誕生し互いに争うという時代の形成に影響を及ぼしたことだろう。
このグスク時代は、グスク集団による周辺との交易が展開され、広域的な商品流通が展開されるなかで、縄文・弥生文化の影響下にあった「北琉球圏」と台湾・東南アジア島嶼部・ポリネシアなどの南方系文化の系譜をもつ「南琉球圏」という二つの異文化が統合され、「琉球文化圏」という同質の文化圏を形成していく画期的な時期であった。(P20)
中国では960年に宋によって中国は再び統一される。宋は関税収入を主要財源の一つとして海外貿易を振興した。指定港となった広州や泉州の港にはイスラム商船をはじめ東南アジアの船が多く来航し、豊富な資金を有する豪商も誕生していた。中国の主な輸入品は香料・香辛料・香木・犀角・象牙などで、輸出品は絹・陶磁器・銅銭・鉄器・漆器などである。
宋商人は国外にも飛び出し、朝鮮、日本、東南アジア各地に貿易拠点の居留地を作り、華僑ネットワークを形成していく。宋を中心に、東アジアの海は日本をはじめ多くの国の交易船と海商が往来するようになり、東アジア全体の交易システムが確立されていく。「このような海商たちの海外貿易に媒介された経済新秩序は、「東アジア交易体制」とよばれている」
11世紀以降のこのような活発な貿易体制は、当然長く原始的社会であった琉球諸島にも影響を及ぼした。日本から中国への輸出品には琉球産の夜光貝があり、グスク遺構から出土する中国製陶磁器は日本からだけでなく直接中国との交易によるものもあるという可能性は否定できない。
宋代の中国の史料の中には、「琉求」の海辺には中国との交易のための商館がある、といった記述や、船乗りたちの間で「琉求」の名が知られていたという記述もある。ただしこの「琉求」が現在の沖縄を指しての言葉かは不明である。元代の初期には、江蘇省の商館に日本人と琉球人の商人が雑居していたという記録もある。
奄美・琉球諸島も何らかの形で「東アジア交易体制」に組み込まれていたことは確かだが、宋代と元代には日本の九州・大宰府のようにこの体制の貿易拠点にはなることはなかった。琉球が貿易国家として頭角を現すのは、元が倒れ明の時代になってからのことである。