第2章『明の成立と琉球王国の勃興』

以下、『琉球王国』の第2章をまとめてみます。

1.海禁政策朝貢体制

 1368年、征服王朝である元を倒して洪武帝朱元璋)が明王朝を樹立した。その頃、日本は南北朝の動乱によって混乱し、倭寇と呼ばれる海賊が壱岐対馬・北九州を拠点に中国や朝鮮の沿岸部を荒らしまわっていた。また海上に逃れた反明勢力も明を打倒する機会を伺い、倭寇と結んだり沿岸部の住民との密貿易に従事したりする者もいた。倭寇海上の反明勢力は、明王朝の統治を揺るがしかねない力を持っており、洪武帝は私的な貿易や海外渡航を禁止し、沿岸部を封鎖する「海禁」を実施した。
 洪武帝は、伝統的な儒教的秩序を確立することによって、王朝交代の動乱で乱れた国内の秩序を再建しようとした。そして周辺諸国に対しては、中華思想儒教の「徳治」「礼治」の理念に基づく朝貢によって君臣関係を結んで統制し、東アジアに「礼的秩序」を構築しようとした。
海禁政策朝貢体制をセットにして海外貿易権を朝廷に納め、朱元璋は東アジア諸国宗主国として君臨しようとしていた」(P33)

 そこで洪武帝は1368年から69年にかけて安南*1、高麗、占城(チャンバ)*2、爪哇(ジャワ)などに入貢を促した。諸国はこれに応じて入貢したことから、洪武帝はそれぞれの首長をその国の国王として冊封した。
 1369年には、南北朝動乱下の日本にも使者を送り、大宰府にいた南朝の征西将軍懐良(かねよし)親王詔書を渡している。日本は中国沿岸部で暴威を振るう倭寇の根源であり、明としては何としても日本を取り込み、倭寇の取り締まりをさせなければならなかった。そのため詔書には、朝貢を拒否すれば明は自ら軍を派遣して倭寇を鎮圧し日本国王を捕らえることも辞さない、という脅迫的言辞まであった。
 これに対して懐良親王は使者を切って拒絶している。しかし1370年に再び使者が派遣された際には態度を改め、翌年「日本国国王」を名乗って入貢している。しかしその後、北朝の軍勢によって大宰府が陥落すると懐良親王は逃亡し隠棲してしまい、明との朝貢関係も流れてしまった。


2.琉球国の進貢

 1372年、洪武帝は日本に派遣した招撫使の楊載を琉球に送り朝貢を促した。当時、琉球はまだ中山・北山・南山が覇を競っていたが、楊載は最大勢力であった中山王・察度の元に送られ、中山王はただちに入貢に応じた。

 入貢してきた中山王の使者に対し、洪武帝は表文と、琉球国からの貢物に対する下賜品として美しい金糸を織り込んだ絹織物と明の暦法に基づいて作られた大統暦を与えている。表文は儒教思想に基づいて皇帝の徳を称えた文書で、今後の朝貢の際には必ず携帯しなければならず、これを持たない使節は退けられてしまう。また朝貢国は、中国に提出する文書には大統暦に記された年号と暦を使用することも義務付けられた*3

 明の記録によれば、中山王・察度は以後も五回に渡って使節を派遣している。しかし、進貢貿易のためには、漢文での文書の作成、宮殿での儀礼や貿易に携わる通訳,航海術に優れた水夫など多くの人材が必要であり、そのような人材を中山王がすべて自前でそろえたとは考え難い。おそらくその裏には、王国の華僑の存在があったと考えられる。


3.中国人の渡来

 琉球王国の正史である『中山世鑑』には、1392年に洪武帝より「閩(ビン)人三十六姓」が下賜されたとある。「閩」とは福建省の別名で「閩人」とは福建人のこと。彼らは通訳能力や航海技術を持つ技術者集団であり、王国の進貢貿易をバックアップした。また、三十六とは中国で数の多いことを示す数字で、特に三十六個の一族を指すものではない。この後の王国の正史はすべて、この時下賜された中国人が王国の華僑社会の始まりだと記している。
 しかし明側の資料によれば、この1392年以前に琉球に華僑社会があったことを示す記述がわずかに散見される。洪武帝から技術者が下賜されたという事実はあっただろうが、それ以前にアジアに広いネットワークを持つ華僑が琉球にも現れており、また海禁政策後に土着化したというのが歴史の実態に近いだろう。

 自由貿易時代、琉球の華僑たちは各地の「按司添い」と密接な関係を持ちながら交易を展開していた。しかし海禁政策によって私貿易が一切禁止されてしまった後は、彼らは進貢貿易に活路を見出した。
 進貢体制下では、「進貢」という形さえとっていれば、皇帝への貢物である進貢品以外に「附塔貨物」として商品を持ち込み貿易を行うことが許可されていた。
「進貢貿易のシステムは、民間の貿易を許さない。だが附塔貨物に民間の商品をわりこませることは可能である」(P41)
 例えば東南アジアでは華僑は現地の政権と結びつき、朝貢貿易使節団として重要な役目をこなしていた。これは高い商業能力や優れた航海技術を持ち、各地の事情に通じて外交文書の作成もできる華僑を取り込んで自国の貿易体制を強化できる現地政権と海禁政策下でも公然と中国との貿易に従事できる華僑双方に利があることであった。また中国側からすれば、進貢名義で無関税貿易などの特権を与えて華僑を掌握し、そのネットワークによって海外の物産を安定的に供給できるようになった。
 しかし進貢は単なる土豪では許されなかった。琉球で互いに覇を競う三つの勢力の一つ、中山王が入貢すると、北山王と南山王も競って入貢し、その王権を明に認知されている。この各王の入貢と王権の任地に琉球を拠点とする華僑たちが関与していたと考えられる。


4.明朝の優遇政策

洪武帝はこうした琉球の入貢に対して、異常とも思えるような優遇策をとっている」(P43)
 明は諸国に朝貢を促したものの、多くの国があまりに頻繁に進貢をしに来たため、明側の負担が重くなってきていた。そこで1372年に高麗や安南、爪哇、占城などほとんどの朝貢国の進貢を三年に一回に制限した。しかし琉球はこの制限令が出た後も、一度も制限を加えられず、それどころか「朝貢不時」(いつでも来て良い)という特権を与えられ、一年に数回も進貢してくることさえあった。
 『明史』によると、明時代の各国の進貢回数は多い順に、
琉球171回、
安南89回、
チベット78回、
哈密(ハミ)*476回、
占城73回
・・・と続いていき、朝鮮は30回、日本は19回となっており、琉球の回数は群を抜いている。

 明は諸国が朝貢に来やすいよう船を与えることがあったが、琉球国には1368年〜1424年の間で30隻もの船を与え、さらに必要に応じて航海術を持つ人員も与えた。これほどの船を与えられた国は他になく、しかもそれは一種の軍船であった。
 明は朝貢国に対して、入国地点や交易地点を指定していた。しかし琉球国にはこの規定は適用されず、有利な地点からの入国や交易が許され、琉球は交易の主力である磁器の供給地である福州などによく訪れた。
 また明は正規の進貢船かどうか判別するため、各国に「勘合」という証明書を与え持参を義務付けたが、琉球にはこの規定も適用されず、進貢船は琉球王府が発行する渡航証明書さあればよいとされた。

 ではどうして琉球国だけにこのような優遇策が適用されたか。
 当時、明は暴威を振るう倭寇対策のため日本をこの朝貢体制に組み込むことを必要としていたが、日本側に拒絶され、1434年に足利義教が進貢船を送るまで長らく日明関係は断絶状態にあった。明は海禁政策を徹底させて倭寇を押さえ込もうとしたが効果はあまりなく、代わりに琉球国倭寇の貿易の「受け皿」とし、倭寇の襲撃や密貿易を少しでも中国沿岸からそごうと考えた。

 琉球国が中国と進貢貿易を始めると、中国商品を求め倭寇や中国の密貿易集団が利益を求めて琉球諸島に集まるようになった。那覇倭寇に拉致された人民の人身売買の市場の一つとなり、琉球国王はたびたび拉致されてきた朝鮮人などを本国に送り返している。琉球は明の意図によって、明国域外の倭寇の「受け皿」となった。

 しかし明の優遇策の理由はそれだけではなかった。明朝は1394年に琉球国王の要請という形で琉球国の王相職や通訳の華僑に正五品の官職や「千戸」という武官職を与えている。
 また国交の無かった日本と明の仲介役を琉球に命じてもいる。明は文・武の官職を与え琉球を介して倭寇の情報を収集し、また倭寇の監視,日本と明の仲介という役目を琉球国に与えていたと考えられる。さらに元朝の残存勢力が根強い北方の守りのために必要な良馬や火薬の原料である硫黄*5琉球国から供給されており、琉球は明朝の重要なパートナーであった。

*1:現在のベトナム北部

*2:現在のベトナム南部

*3:中国の皇帝は天の理をも司る存在とされ、諸国がその皇帝より下賜された中国暦を使うことは皇帝のその力を認知することであった

*4:現在の新疆ウイグル自治区

*5:かつて琉球は良馬の産地であった。また硫黄は硫黄鳥島などから大量に産出した