「受け皿」説への疑問

下に『琉球王国』の第二章をまとめてみたのですが。
ブログ主は歴史学をちゃんと学んだことがないのですが・・・どうもこのあたりちょっと納得できない部分があります。以下、あくまで素人考えでちょっと疑問と私見を。
まあ、特に資料的根拠もない単なる推理です。私なんかが思い浮かべられることを専門家である著者が考えつかなかったとは思えないので、きっと穴だらけの推理なのでしょうけど・・・まあ、こういうの考えるのはなかなか楽しいので。


 明の優遇策の理由を著者は、琉球国倭寇の「受け皿」としたかったとありますが、これってどうなんですかね。このあたり何度本書を読んでも意味がわからないです。
 確かに中国の沿岸部での密貿易は減るかもしれませんが、でも倭寇琉球でやる密貿易の「品物」って結局は中国の沿岸部を襲って略奪してきたものなんじゃ? 本書でも朝鮮から拉致されてきた人民を琉球王府がたびたび送還したことが紹介されており、つまり倭寇の略奪問題は全然解決されていないってことです。むしろ、琉球という中国の官警の及ばない貿易場所を見つけて倭寇の略奪活動がますます活発になる恐れさえあります。
 もっともある程度密貿易を許してやることで、倭寇がだんだんと穏健化し、海賊からせいぜい中間密貿易集団に変化することを期待したのかもしれません。しかし、それなら「海禁」などやめて自由貿易を許せば倭寇の穏健化がもっと促進されたって話になります。倭寇は明以前からいましたが、明が自由貿易を許さないことでそれまでの貿易従事者が倭寇化したというのもあったと思います。まあ、海上の反明勢力や貿易独占権の問題などで簡単に「海禁」を解くわけにもいかなかったでしょうが。
 それに明が琉球倭寇の「受け皿」にしたいと考えたところで倭寇がその通りにする保障なんてどこにもなかったはずです(結果的にはそうなりましたが)。むしろ「中国の富が集まる」琉球倭寇のかっこうの略奪対象とはならない、なんてふうに明が考えていたなんてのは不自然です。明は沿岸部に軍を配置して襲撃に備えましたが、倭寇はそんなものものともせず襲ってきた、まして琉球なんてそれに比べたら全くの無防備だというのに。
 また著者は、倭寇対策で最重要の日本が入貢しなかったためその善後策として琉球を「受け皿」にした、と説明しています。確かに後の章でも触れられている通り、日本と明との間に交渉が始まると琉球に対する優遇策は後退していったとありますので、明の琉球優遇は日明関係のあり方が大きく関わっているのでしょう(しかし優遇策の後退理由はそれだけでなく明の財政状況の悪化も関係しています)。
 しかし日明関係は60年に渡って断絶し、その間倭寇が暴威を振るうことになりましたが、あくまでそれは結果論です。日本は入貢を拒みましたが、それは永遠不変の外交政策ではない。懐良新王が一度は拒絶しながら結局は態度を翻したように、交渉や情勢の変化によって日本の入貢拒否の態度はいつでも翻る可能性があるものでし、明もできるだけ早期にそうなってほしいと期待し働きかけていたはずです。もちろんそれまでの間、倭寇対策をしないわけにはいきませんが、それが琉球優遇策だとしたらそれはあくまで日本が入貢するまでの一時的な処置の積み重ねとなったはずです。しかしその内容は、むしろ名も無い新興国で貿易船を作る材料も航海技術も無い琉球が、一人前の貿易国となれるようかなり長期的視野に立った優遇策であったように思えます。
 このように、琉球倭寇の「受け皿」にするなんていうのは、倭寇対策として合理的ではありませんし,またそれを明が意図してやったというなら、倭寇が自分の思い通りの行動をしてくれることや日本が長期間に渡って入貢を拒否し続けるということを明が事前に予測可能であった、ということになります。なのでやはり「日本の入貢拒否による琉球倭寇「受け皿」化」説には納得できないものがあります。

では、なぜ明は「異常」に琉球を優遇したか。以下、素人考えでこういうことだったんじゃないかなぁ、と考えてみました。

商人たちの自由な貿易活動によって形成されていた東アジア全体の交易システムがくずれ(中略)中国国内では海外商品の流通が需要を満たしきれなくなっていた。また明皇帝がとった貢期の規制という朝貢貿易体制下において、中国産品の供給が品薄になったため、アジア各地においても中国商品に対する需要が高まっていた。(中略)当時勢力を増しつつあった琉球国の交易船が、日本・中国・東南アジアの地域間貿易の均衡をたてなおす中継貿易の担い手として登場することになる。
琉球王国は中国の優遇政策を積極的に利用し、下賜された海船をもちいて南シナ海交易圏の東南アジア各地の港市に対して活発な通商活動を展開し、そしてそれに日本や朝鮮といった東シナ海交易圏をリンクさせて壮大な海のシルクロードを新たに築き、那覇港は東アジアの地域間貿易港を結ぶ代表的な交易港へと変貌していった。(『琉球王国』P12)

 著者は琉球王国が中間貿易で繁栄できた理由としてこのように書いています。琉球王国が優遇策を積極的に利用したのは事実でしょう。しかしそこにこそ「明の意図」が関わっていたのではないでしょうか?

 明は「海禁」と「朝貢」によって、反明勢力の封じ込め、朝廷の貿易独占、東アジアに儒教的思想に基づく礼的秩序の構築を行いました。これらを維持することは明朝の根幹に関わります。
 ところが、この「朝貢」、実は明の側に多大な負担を強いるものでした。何故なら進貢国が進貢にかける費用はほぼすべて明側が負担しなければならず、しかも進貢品に対してその何倍(一説では十倍以上)もの価値があるものを「下賜」しなければなりませんでした。それが「華夷秩序」の中心にいる「中華」の当然の義務でした*1。結局のところ「進貢」とは貿易です。それなのに貿易にかかる必要経費はすべて相手持ちで、しかもこちらの品に対して何倍もの価値あるものと交換してもらえる*2・・・これほどおいしい話はありません。それは何回でも「進貢」しに来たくなります、実際そうなりました。 *3
 明はその負担に耐えられなくなり、進貢を「三年に一回」に制限したわけですが、しかし「進貢」は諸国にとって「海禁」政策下での唯一の貿易の機会です。これを制限されては諸国は中国の物産が手に入らなくなり、大変な不満が起こりかねない。密貿易が横行するようになるかもしれません。
 そこで明が考えたのが、特定の国に自由貿易に近い特権を与えるという策ではなかったでしょうか。すなわちその国には自由に中国に「進貢」してもらい中国の物産と交換させて他の諸国に向かわせ、各地の物産と中国物産を交換*4、そしてまた中国で交易、というふうにすれば「海禁」「朝貢体制」「進貢期間の制限」というすべてを維持したまま諸国に中国物産が供給され、中国も各国の物産を手に入れることができます。数十カ国もある進貢国が無秩序に中国に来ては大変ですが、一国程度なら自由にこさせても明側の負担はたかが知れています。

 そしてその選ばれた国というのが琉球王国でした。何故、琉球王国が選ばれたかというと、さらに素人考えになりますけど、二つほど理由が思いうかびます。
 一つは地理上の理由。例えば朝鮮は中国とやりとりするにはいいけど東南アジア諸国に行くには不便。そして東南アジア諸国も互いの行き来はいいが中国や日本・朝鮮に行くには不便。しかし琉球王国はこれらの諸国に比べて中国にも日本・朝鮮にも東南アジアにも行き来しやすい位置にあります。
 二つ目は、東南アジアなど古くから多くの国が隣接している地域で、その中の一つの国に特権を与えてしまってはやはりいろいろ問題が発生するでしょう。しかし琉球王国は(日本との往来が比較的多いとはいえ)海上に孤立した地域であり、しかも新興国であるため諸国との政治的歴史的軋轢がほとんどない国です。明が代理貿易をまかせる国としてなかなかうってつけだったと思います。

 と、まあ勝手に著者の説に反論してしまいましたが、本書で納得行かないのはこの「受け皿」説だけです。基本的に『琉球王国』は非常にわかりやすくまた妥当な歴史解説をしている良書だと思うので、今後ともこれで勉強していきます。

 さて、その他の補足や感想なども。


 無防備な琉球王国倭寇の襲撃対象とならなかったわけについて。
 「受け皿」説を否定すると、このへんがよくわからなくなってしまいますが。いつか立ち読みした本に琉球王国倭寇と結託していた、という話が書いてあったような・・・。
 結託というと人聞きが悪くまた実際ともちょっと違ってきますが、まあ、倭寇に脅されて水や食料を供給していたのではないか、という話です。倭寇には明や朝鮮の軍隊でさえ太刀打ちできなかったのですから、琉球王国倭寇の要求をつっぱねろというのも無理な話で、安全と引き換えに消極的に物資を援助していたらしいとのこと。ちなみにその本では、倭寇との関係は中国側には隠し通していた、と書かれていたような気がします。
 また琉球は中国との貿易で富が集まらなければ、倭寇にとってはなんの魅力もない場所でした。なのでいたずらに武力で持って富を略奪し荒廃させてしまうよりも、手を出さずに繁栄させておきその富を密貿易によって交換していくほうが良かったのでしょう。倭寇の間でそういう一種の協定があり、倭寇同士の微妙な勢力均衡の結果、琉球は襲撃をまぬがれていたと考えるほうが明朝が意図して「受け皿」化したというより納得がいきます。


 三十六姓以前の華僑社会について。
 琉球王国の最初の正史『中山正鑑』では、1392年に洪武帝によって閩人三十六姓が下賜されて首里の近くの久米村(くにんだ)*5に住み着いたのが華僑社会の始まりとし、その後に王府が編纂した『中山正譜』『球陽』でもその記述を踏襲しています。つまり正史は、三十六姓以前の華僑社会の存在を一貫して否定しているのであり、そのため長らく沖縄の歴史学会も1392年の久米村が華僑社会の始まりだというのが通説でした
 しかし本書にもあるように、1392年以前にまったく華僑社会がなかったというのは不自然です。だとすると問題は、何故正史はそのことを否定し続けているのか。また久米村三十六姓は通訳や航海技術の提供、外交文書の作成などを行っていましたが、彼らの王国における地位はいまいち謎な点が多いようです。なので最近の琉球史研究では、三十六姓以前の華僑社会そして久米村の琉球史と王国に本当はどのような作用を与えていたのか、そして正史は何故それらを語らないかを解明することで、新しい琉球史像ができるのではないかとされているようです。


進貢しすぎな琉球
 前のエントリーで紹介した明時代の琉球王国の進貢回数ですけど・・・や、これ何回見ても笑えます。もう、おまえ、どんだけ中国のこと好きなんだよって感じで・・・。朝鮮でさえ30回、2位との差も2倍以上(陸続きの国なのに)。ヘタ×アで擬人化される際にはぜひこのへんのことネタにしてほしいですね。
 「朝貢」というのはあたかも中華思想の象徴の一つみたいなイメージですが、実際は「属国」にとってひっっじょうにおいしい話だったんですね*6。ちょっと土地の特産物持って行ったら十倍返しにしてくれる・・・そりゃもう何回でも中国皇帝に頭下げに行きたくもなりますよ(←その一方で倭寇と結託とかしていたわけだが・・・)。
 でも明だって財政厳しいのに、そう何回も何回も会いにこられてうざかったかもしれませんね。しかも後でちょっと貢期を制限したらさらにうざくなった、というのは今後の話。日本は朝貢を拒否し続けて立派だったという話も一部で聞きますが・・・その変なプライドのとばっちりを後々受けるのが琉球だった、という話もおいおいしていきます。


ところで。
昨日『琉球王国』を全部読み終わったのですが・・・もう最後の『王国の消滅』のあたりが泣けて泣けて・・・・・・。ネット上の情報によると大河ドラマの『坂の上の雲』は今、日清戦争のあたりをやっているんでしょうか? 原作もドラマも見れないし見る気もないのですが、あのあたりは琉球(すでに沖縄県)にとっても運命の時代ですね。でも台湾や朝鮮のことは話題に出たとしても、琉球問題についてはたぶん触れられてないだろうな。

*1:こう考えると「中華思想」も大変だな

*2:ちょっと朝貢貿易における明側の負担がどの程度だったかについてはあやふやですが。進貢国側もそれなりに費用がかかったはずですけど。また「十倍返し」は皇帝に捧げる貢物に対してで、その他の交易品は官が管理する現地の商人との交渉によって価格が決まりましたが

*3:洪武帝周辺諸国に招論の使者を派遣して、明朝への朝貢を促した。(中略)その結果、明朝へ派遣される朝貢使節の往来があまりに頻繁におこなわれるようになっていた。それに閉口した洪武帝は、貢期を制限する意向をしばしば出している」P43

*4:明は自国と進貢国の貿易は規制しましたが、進貢国同士の貿易には干渉していません

*5:このため琉球史では彼らを「久米村(くにんだ)三十六姓」と呼ぶ

*6:まあ、これも一面的な見方ですが