第3章 東アジア貿易圏の中の琉球(後半)(追記あり)


4、優遇策の後退


 自由に進貢船が入っていた福州では、次第に風紀が緩み、貿易上のさまざまなトラブルが発生していた。
 1471年、琉球国王には許されていなかった龍の紋章を入れた衣服を作った罪で、琉球使臣の蔡エイが福州の刑部に捕らえられた。刑部は違法行為を確認しながらも、慣例に従って琉球側に蔡エイを渡し、その処罰をまかせた。しかし琉球で蔡除エイは処罰されることもなく、その後の何度か進貢の随伴として来中している。
 さらに進貢のため中国に来た琉球人が帰国せず、福州に隠れ住み家業を営むものまでいたこともあった。1472年、福州当局の上奏を受けた礼部*1は、戸部が認めている者には戸籍を与えて居住を許し、それ以外はすべて帰国させることにした。その後は、自由な居住は許されず、琉球人は福州琉球館に住むことが義務付けられた。


 1473年には琉球使節による福州住民の強盗・殺害事件が起こった。中国側は度重なる不祥事に対する処罰という形で、無制限であった琉球の貢期を二年に一回、食料を供給する随員の数は150人とし、個人貨物の持ち込みを禁止した。

 現実には、個人貨物に関しては、すべて王府の附搭貨物として届け出れば、持ち込みは依然として可能であり、それを中国側がみわけるのは不可能であったことから、以後もこれまで同様に持ち込まれていた。

 しかし、琉球に対する優遇策の後退は、不祥事に対する処罰だけが理由ではなかった。
 宣宗の時代(1462〜1435)になると明の対外政策は消極的になり、朝貢において明が負担する経費も節約されるようになっていた。1435年には、宣宗帝は琉球国に対してあわせて二百人のみを上京させ、その他は福州に残すよう命じている。
 また琉球福州館に住む琉球人への食料などは地方の責任で支給することになっていたが、その経費が莫大になっており、さらに支給物を彼らが銅に替えてしまうため半年間で79万以上の銅銭が用いられる結果になっている、と1439年に朝廷に報告されている。

 琉球人の頻繁な入貢により、福建や上京使節の通過する各省では、かなりの経済的負担を強いられており、(中略)じつは中国側の優遇政策の見直しは、そうした地方からの経済的な負担軽減を求める声に応じる形で実施されたものであった。


 1434年には、足利義教によって日本が朝貢体制の中に入ったことも大きく影響していた。宣宗時代の琉球使節上京制限は、足利義教入貢の翌年の決定であった。


 1449年、正統帝が土木の変で北方オイラート部の捕虜になると、明朝は北方に対する防衛を強化した。そのため国防費が明朝の財政を圧迫し、これまでの海防重視の政策の中で国策として進められてきた海船の建造は各省の負担で行われるようになった。地方ではそれが重い負担になり、海船の建造は減少。
 その影響は、かつて洪武〜永楽年間だけで30隻の海船を下賜されていた琉球にも現れた。1450年には費用を琉球側で負担して福建で船が作られ、尚清王時代(1527〜1555)には自国で海船を製造するようになった。


5、王国隆盛の陰の衰亡の翳り

 室町幕府は兵庫に琉球奉行を設置し、琉球船の貨物を管理していたが、琉球側はその厳しい管理を嫌っていた。また応仁の乱で治安が乱れると、瀬戸内海に海賊が出没するようになり、そのため琉球船の畿内来航も途絶えがちになった。幕府は正式渡航証を発行した商人に対しては貿易のため琉球へ行くことを許可していたが、琉球船の来航途絶によって南海産物が手に入らなくなった堺商人の中では、幕府の統制からはずれて琉球へ向かう者が後を絶たなかった。
 1471年、幕府は琉球へ向かう航路上にある南九州を支配する島津氏に対して、このような密航者を取り締まる役目を与えた。もちろん琉球側にはこのような幕府の意図に従う義務は無く、島津氏の取り締まりをかいくぐってやって来た商人を入港させるか否か独自に判断していた。


 この頃、琉球は明から二年一貢を命じられたが、一回ごとに派遣する船の数を増やすことで貿易の利益を守っていた。さらに無許可でやってくる堺商人を受け入れ、対馬や肥後、種子島、豊後など九州各地の領主との通行体制を強化することで、安定した中継貿易体制を築いていた。
 内政面では第一尚氏がクデーターにより倒れ、第二尚氏王朝が成立。第一尚氏時代の15世紀後半には遠征によって奄美諸島を征服し、1500年には石垣島の有力者であるオヤケアカハチ・ホンカワラを倒して、宮古八重山諸島をも版図に収めた。この尚清王の時代には、行政機構の整備や神女組織*2の確立など、実務的な運営面でも宗教的な面でも王権の確立が進み、中央集権国家となった。


 薩摩の島津氏が幕府から密航者の取り締まりを委託されると、琉球は「紋(あや)船」と呼ばれる慶賀船を、島津氏の代替わりのたびに送るようになる。この際に琉球国王から島津氏に送られる祝い品には、貢物的性格はなく、対等な相手に対する善隣友好関係を示すものであった。島津氏側もまた琉球を対等な相手と見なしていた。
 永正期(1504〜1520)に入ると、島津氏は幕府から琉球行きの船に対する渡航許可証の発行を許されるようになる。島津氏はこうして対琉球貿易で優位に立つと、琉球貿易の独占権を琉球側にも承認させようと、島津氏の渡航許可証がない船が入港した場合、船も貨物も没収するよう琉球に求めている。しかし琉球側にとってはそのような統制は受け入れられるわけもなく、要請に従うことはなかった。


 東南アジアとの貿易においては、尚徳・尚円時代(1461〜1476)には、バレンバン、ジャワが衰退して貿易が途絶えたため、新興の商港であるマラッカやスマトラとの交易が始まった。
 東南アジア諸国への外交文書は、同じ中国の冊封国同士として、対等な関係を示す「咨文」を用いた。シャム王国やマラッカに宛てた咨文には、明朝への進貢品とするために胡椒や蘇木を購入したいということが記され、中国の進貢貿易システムを利用して商品を購入しようとしていた。
 しかし現実の貿易では、強力な現地の官吏や商人に存在によって琉球にとって有利ではなかった。例えばシャム王国では王室が貿易を独占し、アユタヤ港に常駐する役人によって中国商品が一方的な値段で買い叩かれ、胡椒など琉球側が求める商品は公のルート以外の購入を許さなかった。また最大の交易相手であるマラッカでもトラブルが後を絶たず、ポルトガル人の記した「代金を受け取る際、もし人々がかれらを欺いたら、彼らは剣を手にして代金を取り立てる」という一文は、不正が横行していたことを示している。


 そのポルトガルは1510年にインドのゴア、1511年にマラッカを占拠し、インド洋と南シナ海の交易に大きな影響を与えはじめた。さらに海禁政策がゆるみ、中国人密貿易商が東南アジア方面に進出しだした。琉球ポルトガルの勢力下にないジャワ島西部のスンダと国交を開き、バタニやシャムとの関係を密にして対抗したが、中継貿易の斜陽の段階に入った。


 16世紀半ばになると、倭寇の主体は日本人から武装した中国人密貿易集団に変っていた。これは後期倭寇と呼ばれ、1523年の「寧波の乱」で再び国交が断絶した日本と明の貿易は、九州に拠点を置く後期倭寇によって担われることになった。
 しかし1556年から1557年にかけて、明は有力な倭寇の頭領を捕らえて処刑し、さらに1567年に海禁政策が解かれ福建の月港が中国船の出入り港として指定すると、倭寇の活動は収束していった。月港からの渡航する貿易船が許されたのは、東はフィリピン、ボルネオ、インドネシアへ行く航路、西はベトナム・タイ・マレー半島からインドネシアに至る航路で、日本への渡航は禁止され、密貿易が継続された。


 そのような情勢の中で、琉球の進貢貿易も衰退していった。例えば、胡椒の年平均輸出量は、尚徳・尚円王(1461〜1476)時代には2857斤であったのが、尚真王(1477〜1526)の時代には1600斤、尚清王(1527〜1555)時代には250斤に落ち込んだ。
 一方、ポルトガルは1554年に中国・広州での通商許可を受け、1557年にはマラッカの海賊を撃退した功により同地の居住を許された。さらに1571年に長崎港が開かれると長崎とマラッカを結んで、中国産生糸と日本産の銀という当時の東アジアで最大の利益が上がる商品の中継貿易を担い、従来の中継貿易国家・琉球は大きな打撃を受けた。
 さらに東南アジア諸国でもポルトガルや中国人密貿易商、マニラを拠点とするスペイン勢に抑えられ、スンダ、パタニと交易が断絶し、1570年にシャムに来航したのを最後に東南アジア貿易から撤退した。


 一方、薩摩は1570年に、本来要求されて派遣されるものではない代替わりの慶賀船の派遣を琉球に要求し、また島津氏の渡航許可書を持たず琉球に来航した日本船の取締りを改めて命じた。琉球は1575年に要求に応えて慶賀船を派遣し、さらにそれまで拒み続けてきた無許可船の取り締まり要求も受け入れることを伝えた。
 1572年、尚元が逝去し、明から跡継ぎの尚永のために冊封使を派遣されることになった。冊封も重要な貿易の機会であり、冊封随行者が持ち込んだ商品を琉球側は冊封が帰国するまでにその商品の価格を評価して銀で買い取り、また随行者の必要とする商品を売った。この買取りに必要な銀や随行者に売る商品の調達先、および買い取った商品の転売先として日本の重要度が増していた。しかしポルトガル人や中国人密貿易商の進出、そして対琉球貿易の独占をはかる島津氏の妨害で堺や博多商人と琉球との関係は弱まっていた。琉球が薩摩に譲歩した背景には、このような交易環境の変化がある。
 1579年に冊封使琉球に着くと、薩摩も交易船を派遣した。冊封使の謝杰は帰国後、多くの日本人が来て交易において琉球人が押されていた、というようなことを語っている。圧力に屈する形となった琉球と薩摩の関係は、それまでの「善隣友好」という対等な関係から、薩摩側の優位が強まることになった。


以上、第三章(後半)のまとめでした。
琉球王国の歴史は長く、貿易立国であるイメージが強いが、その最盛期は200年ほどと意外と短かったようだ・・・・・・いや、200年と言えば長いか?
その間、日本では応仁の乱から戦国時代へと移り、争いを繰り返していた。その同じ時代に、海を越え、多くの国々と貿易によって関係を築いた琉球の歴史はやはり価値があるだろう(もちろん琉球王国奄美大島八重山諸島を征服するために戦を起こしはした)。
さて、ラストではその貿易によって栄えた琉球の斜陽と島津氏の影が語られ、なにやら不穏な感じで次の章に続く。

*1:外交を担当する部署。この名から、中国が外交を「(儒教的秩序に基づく)礼」として考えていたことがわかる

*2:彼女らは「ノロ」と呼ばれ、国王の妻(または姉妹)が聞得大君(きこえおおきみ)として統率した。ノロは王府に公式に任命された役職であり、女性のみである。一般に世襲制で、霊感の有無に関係なく任命される場合があった。これに対して「ユタ」は民間の霊媒師(的存在)であり、生まれついて霊感が高い者がなった。圧倒的に女性が多いが、男性のユタも存在する。王府は王権を宗教的に支えるノロの権威を守るためしばしばユタを迫害した