第4章 幕藩体制下の琉球(追記あり)


1、島津氏の琉球侵攻


 1578年、豊臣秀吉の妨害によって九州統一に失敗した島津義久は、琉球の支配に固執するようになる。しかし1582年の本能寺の変の後、秀吉は因幡国鹿野城亀井茲矩に全国統一後、琉球を賜ることを許し、島津義久は大いに焦った。
 関白就任後、秀吉は琉球に対しても上洛(服従)を要求し、島津義久も関白就任の慶賀船を送るよう命じた。琉球にとって秀吉の臣下になることは受け入れ難いことであったが、逆らうのは亡国の道を辿ることだと恐れた琉球国王・尚寧は、慶賀船の代わりに僧侶の天竜寺桃庵を派遣して関白就任を祝うというあいまいな対応をした。しかしこの桃庵の派遣によって、琉球が服属したものと一方的に見なしたのである。
 1590年、亀井茲矩琉球の実行支配を狙って、巨艦と兵を引き連れて南下した。これに対抗して島津義久は、秀吉が朝鮮出兵のために各地の領主に負わせた軍役負担を琉球も負担するよう尚寧に命じた。その上で、一方的に琉球の軍役負担を薩摩が肩代わりして薩摩・琉球合わせて一万五千人の軍勢とし、併せて琉球に兵役を免除する代わりに7000人分の十ヶ月分の兵糧を要求した。
 この島津義久の策は成功し、琉球の「与力」化が実現。琉球が薩摩の軍事指揮権下におかれたことを認めた秀吉は、朝鮮出兵を優先して亀井氏に琉球遠征を中止するよう命じ、替わりに明の浙江省台州を与える約束をした。

島津氏は改めて琉球へ、秀吉の命令として軍役が賦課されていること、軍役の代わりに七〇〇〇人分の兵糧を提出すること、唐入りのことなどを異国へ漏らしてはならないことなどを伝えてきた。しかし、琉球は即座に翌年の進貢使に命じて明国へ急報している。そのため、明は琉球へ秀吉の動向を探り報告することを求め(後略)

 そうした中、秀吉は朝鮮に出兵し、豊臣政権との対立を避けるため、王府は薩摩の要求の半分だけを提出し、様子を見ることにした。
 1593年1月、朝鮮国王の求めにより、四万の明軍が朝鮮に来援。4月には日明両国の間に停戦協定が成立し、講和交渉に入った。日本側は講和の条件として進貢ではない勘合貿易と朝鮮南部の4道の割譲を求めた。

一五九三年四月の日明間の休戦成立を契機にして、王府は豊臣政権との間に距離を置き、宗主国として君臨する明朝への属国意識を鮮明にうちだしていく。王府の政策転換の背景には、秀吉の朝鮮侵攻に対する宗主国明国の軍事介入があった。尚寧は明国の属国保護に期待して、翌一五九四年(文禄三)六月十日付で、国力の衰微を理由に薩摩の再度の軍役負担には応じかねる旨の書を送っている。

 1597年、和平交渉の決裂後に秀吉は再び朝鮮を侵略したが、1598年の秀吉病死により、日本軍は朝鮮から撤兵した。


 1599年、徳川家康対馬の宗氏に命じて明へ国交回復を打診し、また琉球の仲介で1547年以来途絶えていた日明貿易の再開を期待した。家康は積極的な善隣外交による近隣諸国との正常な外交関係の回復と貿易の促進を目指したのである。
 1602年、陸奥国伊達政宗領に琉球船が漂着すると、家康は彼らを島津氏に預け、無事に琉球まで送り届けるよう命じた。それは送還の途中で琉球人が死亡するようなことがあれば、琉球人一人につき島津氏の家臣五人を成敗すると厳命するほどで、家康がいかに琉球の心象をよくしようとしていたかわかる。
 しかし島津義久は、家康が島津氏に琉球人の送還をまかせたのは、琉球が薩摩の「附庸国」だからだと尚寧に説明し、家康に対して聘礼使を送るよう命じた。義久はすでに一方的に琉球を「与力」としていたが、それは琉球の認めるところではない。しかし聘礼使を送ることは、琉球自ら薩摩の従属国であることを認めることになり、琉球にとって受け入れられることではなかった。
 

 1606年、薩摩では領国の知行高20%にものぼる11万8千石もの知行地が、年貢の徴収が困難な荒廃地であることが明らかになった。新しい藩主となった島津家久財政破綻の危機を乗り切るため、聘礼使を派遣しない琉球の不義に対する懲罰を理由に奄美大島の略取を願い出、聘礼使問題で琉球に不満を抱いていた家康の承認を得た。しかし、この年は日朝国交回復交渉が大詰めを向かえており、また琉球冊封使が来ていたため侵攻は控えられた。
 1607年、日朝間の国交が回復すると、家康は島津氏に琉球出兵の準備をさせた上で聘礼使の派遣を琉球に促した。さらに島津氏は、かつての朝鮮出兵の軍役の未納分を完納するか奄美大島を割譲するかの二者択一を迫ったが、どちらも琉球には到底受け入れられないものであった。
 1609年、島津家久は家老の樺山久高を大将として、100隻・3000人の軍勢を琉球に出兵した。表向きの理由は家康に聘礼使を派遣しない不義に対する懲罰であったが、真の目的は対琉球関係の清算奄美大島を得て薩摩藩の財政危機を乗り切るためであった。薩摩軍勢はまず奄美大島と徳之島を攻略し、四月には首里に攻め入った。王府の守備軍は壊滅し、尚寧は降服。薩摩は国王・尚寧や三司官などの王府高官を薩摩に連行した。その後、尚寧は島津義久駿府城へ連れられ、中国皇帝から下賜された中国の装束・冠姿で家康に対し聘礼を行った。


2、幕府の対外政策と琉球


 1609年、家康は琉球征服の功を賞して島津氏の琉球支配を認め、その一方で王国自体は今まで通り中山王(尚王家)の国として存続させることにした。これは明に進貢する琉球を日明間の仲介役とするためである。
 1611年、尚寧は帰国を許されるが、それに際して神仏にかけて薩摩藩主への忠誠を誓う誓詞証文を薩摩に提出させられた。この証文は以後歴代国王および摂政や三司官まで薩摩に出すことが慣例となった。


 明は朝鮮出兵琉球への軍事侵攻によって日本に対する警戒感を強めていた。そんな中、日明貿易の仲介を命じられた尚寧は1612年と1613年に進貢船を派遣している。進貢使が日本の意向通り仲介工作をしたかどうかは不明だが、明側は使節一行が例年になく定員を超え、貢物の中に日本の産物が多数混在していたことから、日本の影に気づいたようである。
 明は日本に工作を命じられているらしい琉球の進貢に対しても危機感を募らせ、それまで二年一回であった貢期を突然十年一回に改めた。表向きは琉球の国力の衰微に対する配慮であったが、実際には徳川幕府の対明通行工作に対する危機意識によるものである。しかし、一方で明は宗主国としての影響力を維持するため、引き続き琉球を属国として残した。
 1614年、幕府は明との貿易を求める書信を琉球に渡し、再び進貢船を派遣させた。この書信には
一、日本の商船と明との直接交易
一、明の商船が琉球に来航しての貿易
一、毎年琉球から進貢船を派遣しての貿易、
の三案が提示されていた。幕府は直接貿易が望めない場合は、琉球を中継地にするつもりであった。
 しかし琉球の進貢使節団はこの書信を明側に渡さなかった。また明側も貢期をたがえての入貢を許さず、使節団を入国させずに帰国させている。

中国側に手渡すことは、宗主国である明国の琉球に対する不信感を一層つのらせ、王国存続の後ろ盾となっていた進貢体制に大きな亀裂が生じる事態も予想されたことから、中国側の帰国命令は王府にとって幸いした。一連の幕府の琉球を介しての対明交渉は、こうしてことごとく失敗した。


 その頃、日本ではキリシタン問題が深刻化していた。幕府はキリシタン禁止政策を徹底させ、海外貿易を長崎に限定するだけでなく、琉球に対してもキリシタン宣教師の潜入を阻止するため、薩摩に「琉球押さえの役」を義務づけた。
 この「押さえ役」とは一種の警備役であり、異国船の来襲などの非常事態が訪れた時には、軍兵を派遣する義務を負っている。琉球カトリック布教の一大中心地であるフィリピン諸島からから北上して日本に至る途中にあり、フィリピンのスペイン系修道会には琉球を足がかりにして日本布教を進めようとする動きもあったからである。
 幕府はさらに日本型海禁政策琉球にもあてはめ、ヨーロッパ諸国との自由な貿易を禁じた。幕府は薩摩に琉球にヨーロッパ船が来航することがあれば報告し、オランダ船と中国船は保護し、それ以外の国の船と人員は捕縛して薩摩へ送付し、場合によっては殺害しても良いと命じていた。こうして琉球王国にも幕藩体制下の幕府法が次々適用されることになった。


3.島津氏の琉球統治
 

 琉球征服後、島津氏は太閤検地に基づいて「琉球国検地」を行い、喜界島・大島・徳之島・沖永良部島与論島の五島を藩の直轄とし、沖縄本島以南を王府の直轄地とした。
 王府は毎年芭蕉布や棕櫚綱などの上納が義務付けられ、後には銀や米でも納めてることも許された。
 1634年、島津家久によって徳川家光に対して慶賀・即位の謝恩のため最初の琉球使節が派遣された。それに先立って薩摩藩は初めて奄美島を含めた琉球の石高12万3700石を披露し、幕府は公式に島津氏の属領としてその石高を認知した。琉球幕藩体制の知行体系の中に組み込まれたが、一方で他の藩と違い軍役は課されなかった。
 幕府は以後三回に渡って、琉球があくまで異国として幕藩体制国家に編入されたことを示すため「琉球国絵図」を作成した。薩摩藩は幕末まで、すでに藩の直轄地である奄美諸島の石高も琉球国の石高として幕府に報告し、対外的にはこれら王府の王権の及ばない地も「琉球国内」としていた。そのため「琉球国絵図」は奄美諸島琉球国として扱われている。


 1634年、薩摩は尚氏の国王号の使用を禁止し、「琉球国司」とした。しかし、

薩摩からは「琉球国司」を名乗ることを強要されていたが、幕府の間では服属した異国の「中山王」といった王号を使用することが許された。

また薩摩藩の主導の下、徳川将軍の襲任を祝う慶賀使を江戸幕府に派遣するいわゆる「江戸上がり」が恒例化した。1710年、島津吉貴琉球使節を召し連れてきた功として従四位上少将に昇進したのを契機に、「江戸上がり」のたびに島津氏当主の官位が上がることも恒例化した。この「江戸上がり」は以後200年の間に計17回行われた。
 明との国交樹立に失敗した江戸幕府は、徳川将軍の対外的称号を、冊封関係の中で互いに対等であることを示す「国王」ではなく、「日本国大君」とし、朝鮮と琉球に対してその称号を使うようになった。
 幕藩体制化では、朝鮮・琉球を「通信の国」とし、オランダ・中国は「通商の国」として、中国と同じく周辺の国を夷族としてみる日本型華夷秩序に基づく外交路線が形成された。
 その下でオランダ商館長と中国商人らは、家康が江戸城入りした旧暦八月一日に毎年「八朔の礼」という祝賀儀礼を行った。また朝鮮を「通信の国」としたが、これは本来「信を通ずる=誠信の外交」という対等な善隣友好的な意味合いであり、朝鮮側もそう理解していたが、幕府はそれを朝貢的な意味合いで使用した。琉球に対しては明らかに朝貢的な意味で使用し、朝鮮とは朝鮮国王と徳川将軍の間で国書がやりとりされたが、琉球には老中が対応した。


4.薩摩口貿易の展開


 薩摩に連行された尚寧王以下三司間は帰国に際して、以後薩摩の琉球支配の根本を成す十五か条の掟を下され、そのうち5か条が貿易統制条項であった。薩摩の注文品以外の中国商品を購入すること,薩摩藩以外の他藩に商船を派遣すること,薩摩藩に許可を得ていない他藩の商人と交易することなどが禁じられ、琉球独自の対外交通を厳しく禁止した。
 幕府は「長崎口」をはじめ、アイヌを通じて北方との交易のための「松前口」、朝鮮へ通じる「対馬口」、中国へ通じる琉球を有する薩摩の「薩摩口」という4つの対外窓口を認めた。この4つの窓口には、海防政策の下でそれぞれに異国に対する軍事防備の責務を負わせ、その見返りとして貿易統制の下で一定の貿易を認めた。


1631年、財政危機を打開できない薩摩藩は、琉球の進貢貿易の利潤で財政を立て直すべく、在藩奉行の公館として「御仮屋」を那覇に設置。また薩摩には「琉球館」を設置して、毎年王府から役人を派遣させて薩摩との折衝や交易の担当とした。
 日本の「鎖国」政策が進む中で、明の日本に対する警戒感は薄まり、十年一貢であった貢期は1623年には五年一貢となり、1635年には二年一貢に戻った。さらに進貢使節を迎えるための迎接船の派遣も認められ、実質、毎年来中して貿易をすることが可能になり、薩摩はますます貿易の利潤を求めるようになった。
 しかし、長崎との競合を避けたい幕府の方針により薩摩が購入を認められた唐物は、藩内消費分のみであった。それでは利潤が上がらないので、薩摩は「琉球国扶助」の名目で唐物を琉球国産品として偽り、上方で売りさばいた。特に、当時中国で最も高級品であった「湖糸」という生糸を主力商品として販売の独占体制を固めた。


 中国との貿易は大量の銀を必要としていたが、琉球は銀を産出しないので、薩摩が調達した。薩摩は藩の信用を担保に大阪・京都などの上方商人を銀を借り、一方王府は砂糖の専売制を敷いて、砂糖を担保として薩摩から銀を借りた。また王府は銀以外にも、進貢物の紅胴や錫の調達、そして唐物や砂糖の販売先も薩摩に依存していた。
 中国では1644年に明が滅び、満州族の清が統一王朝を建てた。1683年、反清勢力を鎮圧した清が渡航制限を解除すると、長崎に来航する中国船が急増し、大量の銀が日本から流出するようになった。1685年、幕府は金銀の流出を防ぐ目的で中国・オランダとの取引高を年間で銀9000貫目に制限し、1687年には琉球に対しても渡唐銀を年間で1206貫目までとした。

渡唐銀には薩摩と琉球双方の持ち分があったが、薩摩は進貢の実態を幕府に隠し、薩摩の分は琉球に貸しているのだと幕府に答えていた。そのため薩摩の銀は「拝借銀」とよばれていた

 琉球はこの「拝借銀」で薩摩の要求する生糸や薬種を中国から買い、琉球が許された分の渡唐銀は王府の入用品の購入や船の修理費に当てた。銀は8月から9月のうちに薩摩から船で運ばれたが、交付が遅れると進貢船の出港に影響が出た。


 また渡唐銀の量が制限されると、それに変わって煎海鼠,干鮑,鱶鰭,昆布,スルメ,干海老など、中華料理の材料となり需要が極めて高かった海産物の輸出が増えた。幕府は金銀の流出を防ぐ一方で、長崎におけるこれら対中国輸出用海産物を独占的に管理した。

しかし現実には、こうした幕府が輸出独占権をもっていた海産物は、薩摩藩を経由して琉球にもたらされ、幕府の統制をはずれて中国へ大量輸出されていた。

 19世紀になると、薩摩と長崎保護の立場に立つ幕府の間で駆け引きが引き起こされるようになったが、幕府は結局、琉球国扶助の名目で薩摩に期限付きで長崎での「琉球産物」の販売を認めた。しかし長崎で販売された「琉球産物」はほとんどが唐物であり、国内需要の高まりもあって販売期限も延長され続けた。アヘン戦争太平天国の乱の混乱で中国船の長崎来航が減ると、進貢貿易で唐物を入手できる薩摩口の重要度が増した。


 江戸時代に日本にもたらされる中国情報は、長崎に来航した中国船からの限られた情報のみであった。特に清は武器の海外輸出と、軍事情報を外国にもたらすことを現金しており、長崎ルートからの情報でもその軍事情報はほとんど把握できなかった。しかし、薩摩氏は琉球を利用して、進貢使に軍事関係を含めた多くの情報を探らせた。帰国した進貢使は「唐之首尾御使者」として薩摩に派遣され、知りえた中国情報を提供し、薩摩はそれを幕府に報告した。



以下、第4章のまとめでした。


・・・・・・この部分は何度読んでも何とも言えない気持ちになるのだが・・・・・・。
一国の王に対して一方的に軍役を負担させ、その上薩摩が肩代わりをしてやるから感謝しろ・・・・・・そして「感謝」が足りないと言いがかりをつけ、圧倒的な軍事力で侵攻し、王を連れ去る・・・・・・。
薩摩の横暴ぶりには唖然とするしかない。近代の日本が「暴支膺懲」にも通じるおぞましさを感じる。


秀吉の琉球の代わりに浙江省台州を与えるとか言うのも、正気の沙汰とも思えない。


また、選べるはずもない二者択一を押し付け、選ぶ機会を与えてやったのに選ばなかったおまえが悪いと言わんばかりの論法も、今の日本ー沖縄の関係に通じるものがある(例えば「辺野古に基地を作るか普天間をこのままにしておくか」という「選択肢」である。沖縄の文学研究者・新城郁夫はこれを「辺野古の人間が(米軍の事件・事故によって)死ぬのがいいか普天間の人間が死ぬのがいいか選べ」というようなものだ、と的確に評していた)。


昨年は「薩摩の琉球侵略400周年」として新聞などで特集が組まれていた。しかし私は、「侵略」と言う言葉をもっともだと思いながらいくらなんでもちょっときつい言い方ではないかともちょっと思っていた。・・・・・・この自分で自分に(不必要な)ブレーキをかけてしまうのは、私の悪いくせである。


さて、それは置いておいて、一つ疑問が浮かぶ。
琉球は何故、薩摩の侵攻に対して明に救援を求めなかったのか? 冊封使だって来ていたのに。
明はこの頃、朝鮮救援や財政危機で国力が著しく衰退していたという。また琉球には朝鮮と同等の援助が与えられない、と考えられていたとも言われる。
しかし、それでも言ってみるだけ言ってみればよかったのに、と思うのだが?
もしかして琉球は、侵略に対する援軍とはいえ、朝鮮のように琉球の国土で明と薩摩軍が交戦することを恐れたのかもしれない・・・・・・それにしても、事態がここまでになっているというのに、明に何も言わなかったのはやはり不思議だ。


それと薩摩の琉球侵攻の理由について。
これは最初から琉球が持つ進貢貿易の利を目当てにしていたのだと思っていた(だから侵攻後も琉球王国の体制は維持するつもりでいた)。
しかし、薩摩が侵攻した時の一番の理由は、奄美大島を略取して藩の財政を立て直すことだった、という。
この段階で琉球王国の存続を願っていたのは、薩摩ではなく徳川家康であった。家康は明の属国である琉球王国に仲介させて日明関係を修復したがっていたのだ。薩摩の軍事侵攻を許可したのは、なかなか思い通りに動かない琉球に一撃を与え屈服させるためであったようだ。
だが、家康の琉球王国を使っての日明国交正常化という思惑もうまくいかなかった。
ここに至って、琉球王国の利用価値は、仲介役から進貢貿易の利を横領するというのに変わったようである。奄美大島を得ても薩摩の財政危機は解決できなかったからである。ちょうど、琉球の貢期も再び二年一貢へ戻っていた。
明の進貢国であるためには、国としての態を成していなくてはいけない。冊封関係にない日本の一地方では当然だめなのだ。そういうわけで、国としての琉球王国は存続することとなった。
という理解でいいだろうか?