沖縄本の本棚作りました

 ネット上の本棚サービス「ブクログ」を使って『沖縄本』の本棚を作っています。このブログの下の方にある本棚のブログパーツから閲覧できます。
 蔵書構成の説明などは、来月時間が出来た時に改めてします。とりあえずお知らせまで。

http://booklog.jp/users/poppen38(沖縄本の世界)

『改訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化』

 再び某所で書いたレヴューを少し手直しして掲載。


 

改訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化

改訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化

 沖縄の高校生向けの歴史副読本。実際には沖縄の高校生より、一般書店で沖縄の歴史を知りたい県内外の大人たちによって買われ活用される方が多いだろう。

 沖縄の先史時代から普天間「移設」問題までがわかる通史。副読本という位置づけのため、一般書より面白みは欠けるが、あくまでそれは一般書との対比。普通の教科書よりは断然おもしろいし、読みやすい。とりあえず沖縄の通史を知りたい人は最初に読むべき一冊だろう。

『平和通りと名付けられた街を歩いてー目取真俊初期短編集』


 某所*1で書いた『平和通りと名付けられた街を歩いて』のレヴューをこちらにも書いておきます。
 実はレビューを書いた時も現在もこの本が手元に無い状態なので、もしかしたら内容に勘違いがあるかもしれませんので、気づいたら訂正します。本当は本を見ながらレヴューを書くべきなのですが、そうするといつまでも書けないので、とりあえず記憶に基づいて書きました。


平和通りと名付けられた街を歩いて―目取真俊初期短編集

平和通りと名付けられた街を歩いて―目取真俊初期短編集


『平和通りと名付けられた街を歩いて』 

 汚物、むき出しの老女の性器、その向こうにいる天皇(皇太子)・・・・・・。
 1983年、皇太子(現平成天皇)の二度目の来沖のため、那覇には厳重警備が敷かれ、少年カジュの祖母で「痴呆」のため街を徘徊する老女のウタは自宅に軟禁されてしまう。しかしかつて沖縄戦で長男を失い、戦後派女手一つで生き残った子どもたちを育ててきたウタは自分を押さえつけようとする力を跳ね返し、誰もが状況に抵抗できない中で一人皇太子に立ち向かっていく。
 最後、一人ウタを連れてヤンバルに向かうカジュが窓越しに見たのは、広々と広がる米軍基地のフェンスとその中で笑う米兵であった。戦争は終わっていない。正気を失ったウタのたった一人の闘いを目撃したカジュにその闘いは未来の沖縄で継承されただろうか?



『魚群記』 

 かつて復帰前、沖縄には多くの台湾女(イナグー)という台湾からの出稼ぎ女性労働者たちがいた。沖縄の復帰、そして日中国交正常化の時代の中で、彼女らは台湾に帰り、沖縄の公の記憶の中でその存在を思い出されることもなかった。
 目取真俊はそんな記憶のポリティクスに抗うように、少年主人公の目を通して、忘れられた彼女らの姿を活写する。ここで目取真俊が本土の沖縄観だけでなく、沖縄内部にある記憶の欺瞞も暴いていることがわかる。
 注目すべきは、主人公の兄が(父も)、復帰運動に積極的に関わり労働運動も熱心に行う理想に燃える青年であるのと同時に、同じ工場で働く台湾女たちの運命には無関心で彼女らを性的な視線の中に囲い込んでいる点だ。これは何を暗示しているのか? 復帰運動の問題点は今日では多く論じられているが、ここでは復帰運動が何を切り捨ててきたかを問うている。そして沖縄の男たちと台湾女たちの間にどんな関係があったのか、という点も。


 目取真俊は何に抗おうとしているのか。それは沖縄を「癒しの島」などといって米軍基地を押し付けたまま自己に都合いいように囲い込もうとする日本の視線と沖縄内部にある都合の悪い記憶の忘却であるように思えてならない。


 ちなみに表題作の『平和通りと名付けられた街を歩いて』には、こんなおもしろい論文があった。<不敬文学>なんてのがあるんだね。

目取真俊の不敬表現−血液を捧げることへの抗い−」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/pdf_22-4/RitsIILCS_22.4pp.153-166Tomoda.pdf

*1:いずれアナウンスします

米軍ヘリ墜落・大学占領事件から7年目


 と、いうわけで、米軍ヘリ(CH-53)が普天間基地に隣接する沖縄国際大学に墜落、その後、米軍が現場を占領した事件から本日で7年目になりました。

 とりあえずあの日のことを回顧する意味で、いくつかブログを紹介しておきます。


 まずは当日の様子を率直に書いたブログより。
 とりあえず、ブログ内にある3枚目の写真がすごい。

http://plaza.rakuten.co.jp/uchinashikaiya/diary/200408130000/

 この現場は、沖縄国際大学の向かいの生活道路にあるマンションの前なんだけど、ここにはプロペラの一部が落ちてきていた。たしか、飛行中に落ちたものではなくて、沖国大の壁にぶつかった際に衝撃で吹っ飛んだやつじゃないかな?
 ブログにはバイクに当たったと書いてあるけど、写真をよく見ればわかるが、バイクだけではなくマンションの表札にも当たって表札が傾いてしまっている。

 で、この写真
 
・ペットボトルを持って、撮影止めろポーズの若い米兵
・ヘリの破片
・それを眺める子どもたち

・・・・・・・・・・いや、もうシュールすぎだろ、これ



 続いては、(私は行けなかったけど)本日の沖国大での公演も大成功だったらしい「お笑い米軍基地」の主導的メンバーの一人である小波津さんのブログより。
 彼はまさしくこの墜落事件をきっかけに「お笑い米軍基地」企画を始めたわけだが、その理由がユーモラスに、実はかなりキツイ皮肉たっぷりに語られている。
 小波津さんは事件当時、東京にいたらしいが、本土のマスコミがほとんどこの事件を取り上げなかったことに(元ブログではフォントの大きさや色を変えています)

沖縄の新聞では、もちろん一面に校舎に突っ込み大炎上するヘリの写真が!でかでかとのってるわけさ!
一方、東京の新聞の一面はというと、巨人渡辺オーナー辞任!さらにアテネオリンピック開幕!
ちょっとまて!沖縄の事故より、あのワンマンオーナーのほうが大事だば!?
さらに、事故当日のテレビニュースを見ても、沖縄のニュースはほとんどやってない!(筑紫さんは別。あの人は、よく沖縄のことをとりあげてくれる!で、沖縄のことやりすぎなんて言われてるみたいだけど・・・。その日もちゃんとやってたさぁ)
いぇ!ふらーないちゃーや!(おい!バカたれ本土の人間!)多分沖縄に住んでる時はその怒りで終わってたはず。
だけど、わったー(俺たち)は東京にきて、あんまり沖縄の基地とか知らない本土のお客さんを逆手にとって基地や戦争の事を漫才のネタにしてたわけさ。
本土の人にとって基地や戦争なんて身近にないから、沖縄出身のわったー(俺たち)がムキになって戦争のこととかしゃべると、滑稽に見えておもしろいらしい、わったー(俺たち)も漫才の時はかならず「戦争」「米軍基地」というキーワードをいれて漫才やってたわよ。
そんなわったー(俺たち)からすれば、この沖縄8・13事件はネタになる!言い方は悪いけど、おいしい事件だわけさ!
翌々日ぐらいに控えていたライブのネタは急きょ変更!漫才にもかかわらず、わん(俺)が「琉球新報」片手にお客に説教するというネタに!「いぇ!あんたなんか東京の人間がオリンピック、オリンピックって大騒ぎしてる間に沖縄では、アメリカ軍のヘリが大学につっこんで大騒ぎになってるんだよ!」いきなり新聞を広げ客を挑発するわん(俺)、慌てる相棒!
「見てご覧!アテネで聖火が燃え上がってるころ、沖縄ではヘリコプターが燃え上がってるわけさ!」その後はもうめちゃくちゃ!
お客だけじゃなく、相方にも説教!沖縄が大変な時に相方はコミケにアニメの同人誌を買いに行ってたってことで(事実)その買ってきた同人誌を勝手にひっぱりだしてきて、客席に投げつけるわん(俺)!怒ってわん(俺)にとび蹴りくらわす相棒!それでも客に説教をやめないわん(俺)!わん(俺)のことを舞台上で引きずり回す相棒!
そんなめちゃくちゃな漫才にお客さんは、大喜び!そんなネタを色んなライブで一ヶ月にわたりやってたわけさ!
で、改めて気づいたわけさ!
沖縄の米軍基地をもっと利用しよう!とことんネタにするライブをやろう!
http://blog.goo.ne.jp/pottekas/e/033f3ca7c7d2e2607df9f29bc6ea2175

 いや、同人誌を晒された相棒の方はご愁傷さま・・・・・・じゃなくて、「本土の人にとって基地や戦争なんて身近にないから、沖縄出身のわったー(俺たち)がムキになって戦争のこととかしゃべると、滑稽に見えておもしろいらしい」ってどんだけ全方位に向けたアッパーですか? 


 と、いうわけで、なんかシュールな話二題みたいになったけど、まあそんな感じで、今後も細々とこの問題は取り上げていきます。


墜―沖縄・大学占領の一週間

墜―沖縄・大学占領の一週間

 

明日は8.13沖縄国際大学米軍ヘリ墜落・占領事件より7周年


 (いつもながら)書くのが遅くなりましたが、明日、8月13日は、沖縄県宜野湾市の私立・沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落炎上し、さらに事故処理として1週間に渡って周辺道路*1と大学構内の1部を米軍が占領した事件が起きてから7年目にあたります。

 明日行われる関連の抗議行動(普天間基地が閉鎖されず、米軍がいまだに市街地上空でヘリや軍用機を飛びまわしていることなどに対して)やイベントを紹介します。*2
 と、言っても実はあまり確かな情報が入手できなかったので、例年行われているのたぶん今年もやるだろう、的な情報まで入っています。
 まあ、参加できる方はぜひ参加してみてください。


・沖国大主催のセレモニー
日時:8月13日 14時〜
場所:沖縄国際大学 正門近くの事故現場
内容:沖縄国際大学による正式なセレモニー。事故を風化させず、米軍機の飛行停止を求める(普天間基地の閉鎖も?)



普天間基地問題に関する講演会
日時:8月13日 14時45分〜
場所:沖縄国際大学 7−201教室
内容:現宜野湾市長(普天間基地撤去を求めて活動した前市長伊波氏の後継者)による普天間問題の講演会。



・特別公演『基地を笑え!お笑い米軍基地 〜すべてはここからはじまった!〜 』
日時:8月13日 15時30分〜
場所:沖縄国際大学 7−201教室
内容:まさしく米軍ヘリ墜落事件をきっかけにはじまった沖縄のお笑い芸人・小波津正之らによる企画「お笑い米軍基地」が、沖国大初公演。「お笑い米軍基地」は、「基地を笑え!」というテーマのもと、米軍基地問題に関するあれやこれやの問題をお笑いのネタにし、もって米軍基地と沖縄社会を風刺する。企画が始まってから毎年毎年たいそうな評判を得ている。


沖国大の告知
http://www.okiu.ac.jp/topics/detail.jsp?id=351
お笑い米軍基地公演の告知
http://www.okiu.ac.jp/UserFiles/File/20110802100149.pdf



沖縄国際大学図書館の墜落事件資料室一般開放(未確認情報)
 以下の情報は、毎年やっているので今年もやるだろう、という憶測に基づきます。
日時:8月13日 図書館開館時間?
場所:沖縄国際大学図書館
内容:沖縄国際大学図書館の2Fには、墜落事件の資料(書籍、新聞・雑誌報道、映像資料など)を集めた資料室があり、当日は一般に開放される。図書館も資料室も通常の日でも受付をすれば部外者でも利用できるが、この日は受付不要になる。



労組主体の抗議集会&デモ(未確認情報)
以下、今年の情報が無いので、例年の情報を元に、たぶん今年もそうなるだろう、という憶測で書きます。
日時:8月13日 18時?
場所:宜野湾市役所前(集会、デモ出発)
内容:米軍機の市街上空飛行禁止、普天間基地閉鎖、辺野古新基地建設反対、日米地位協定の見直しなどを求める集会とデモ。個人参加・デモ途中参加OK。




 毎年恒例(笑)関連書籍の提示。

墜―沖縄・大学占領の一週間

 墜落事故の様子、1週間に渡る占領の全容、事故原因(マクロとミクロ)、事故の対応と問題など、墜落事件の概要がすべてわかる。



沖国大がアメリカに占領された日―8・13米軍ヘリ墜落事件から見えてきた沖縄/日本の縮図

 論文集。墜落事件そのものというよりは、この事件を軸に米軍基地問題地位協定・安保問題、沖縄と日本の関係などを論じる。

*1:こちらの封鎖は三日目に解除

*2:墜落事件について2年間ほど書きかけの記事がありますが・・・今年も事情により続きを書けそうもないです、すいません

4〜7月読了記録

 だいぶ間が空きましたが、あまり本が読めなかったなぁ〜。
 今回から引用に加えて可能な分だけでも目次も書いてみようと思います。


([た]2-1)書店繁盛記 (ポプラ文庫)

([た]2-1)書店繁盛記 (ポプラ文庫)

★★★★★

目次
第一章 リアル書店で働いています
第二章 本屋さんの事件簿
第三章 開店準備は大変です/新宿店オープン
第四章 書店員になった理由

「このごろ保守的な本が多くて・・・・・・思想や歴史の新刊がそんな本ばっかりなんです。もっと怖いことに教育の本にもそんな波が、教育は子供に直接影響がありますから、心配です。そんな本を棚に並べ続けていると、いつの間にか棚から保守の匂いが、それが私には気になって・・・・・・」と彼女は続ける。「最近『歴史洗脳を解く!』(略)が出て、なんだか気が進まなくて、でも売らないわけにもいかなくて、それで目立たないように棚に一冊入れるんですけれど、これが売れ行きがよくて。本当に売れるときはどこにおいても、一冊だけでもお客さんは見つけます(略)『新しい歴史教科書』に反対でも賛成でも、私がどういう立場でも、両側の本がきちんと並んでいればそれがいい・・・・・・って思うんです、でも実際に売れる本は保守的な本だったりして・・・・・・」彼女の目は、いっそ「歪曲された歴史認識に基づく記述・絶対拒否」という立場で本を売ったら、もしくは売らなかったら、どんなに楽だろう、と語っている。
(略)その目はさらに「書店に特定の本を売る場合の責任はあるのだろうか」と語っている。

お客さんが帰ったあと、社員が「ああ、怖かった」と震えた。別に何が起こったわけでもないのだが、雰囲気が怖い、とその社員は言う。書名欄を覗いたら『マンガ嫌韓流』と記入されていた。(略)
「何、この本」と聞いたら、「今売れているんです」そうですか、何だか不穏なタイトル。「一体どういう本なの」と聞いたら、「読んだら、きっと小林よしのりもかわいい、と思いますよ」と返ってきた。へえ、そんな本を売っているんだ。初回の二〇冊はあっという間に売れたそうだ。「でもコミックの担当者は、マンガのレベルが低いので、売り場に置きたくない、って、それで客注対応のみみたいです。結構殺到しているようです。

文芸書や人文書、さらに芸術書の購買客には本好きが多く、ここでの評判が全体のステータスを上げる、というリブロの呪縛から逃れていなかったのだ。ある意味では間違えてはいないのだが、私は理工書と社会科学書の集積がどんな力を持つか知らなかったのだ。

 

どうやら矢寺の戦略は、専門性が高すぎて一般に流通しない本を取り込むことにあるようだ。「必ずマーケットはあります。どうしてかというと、理工書は専門分野のみで流通している実務書が非常に多くて、その情報を集めて本の仕入れをすれば、お客さんは来てくれるから」「どうやってその情報を集めるの」「お客さんが教えてくれます。私は、書店員は謙虚であれ、と教えられました。お客さんのほうが専門家だと。お客さんは専門性の高い特殊な本を私たちに問い合わせてくれます。だから、必死でお客さんから教えてもらいます。取次を通さない本の版元を教えてもらって、いろんな本の情報を仕入れました。今の棚はお客様が作った棚ともいえる、と思います(略)」



★★★★★

目次
座談会 歴史研究の方法と聞き取りの方法 本多勝一を囲んで  本多勝一笠原十九司,鈴木良,吉沢南
歴史研究にとっての聞き取りの方法 鈴木良
日本近現代史とオーラル・ヒストリー 兵士の戦争体験を中心として 吉沢南
歴史学研究と口述記録  笠原十九司
みがかれた証言、事実の説得力  本多勝一,吉沢南
夏淑琴さんの体験 少女輪姦殺害の被害者

鈴木 本多さんは『ルポルタージュの方法』(朝日新聞社<文庫>、一九八三年)の最後のところで、差別とか弱い者いじめの現場を見て、うちふるえる心が無いようなルポはダメだという話をされている。私はこれが歴史を勉強するものが本多さんのお仕事自体から学ばなければならない一番大事なことではないかと思っています。
 私たちも近代史なり現代史なりを勉強するいちばんの出発点には、だれでもそういうのがあったと思うんですね。ところが、いつのまにかそこが失われている。

本多 (略)だからジャーナリストとして、もしほんとうに「人民のために」報道しようと思ったら、やはり、いっさい拘束されないで、ほんとうのことを書くのが結局一番いいのではないかと、いろいろな取材体験から言えると思うのです。

本多 (略)私にとっての技術的な意味での聞き書きは、基本的に「風景を再現する」ということなのです。(略)あらゆる歴史的事実は風景から成り立っている、と。かつては消えてしまった風景ですけど。そこで聞き書きの方法ですが、ある事件、例えば平頂山事件なら平頂山事件があったとすると、そういう「風景」が展開されていたわけですね。それを再現するようにして埋めていくわけです。(略)
 例えば、虐殺の現場があるとしましょう。もし現場が平頂山事件なら、戸外ですから、空があるわけですね。そうすると、空はそのとき、晴れていたか、曇っていたか、雨が降っていたかということも聞いていかなければ、風景の「絵」として空に色がぬれないわけです。どういうふうに埋めてゆくかというと、風景の中に欠けている部分が無いようにしてゆく。(略)
 そのためには、最初からゼロではできません、どこかに核なりとっかかりがないと。ここに地平線があって、ここには家があって、当人はどこにいて――そのくらいはないと、あとどこが欠けているのかわからない。最初から天気のことなど聞かないで、まず向こうが言いたいことを全部言わせて聞きます。
(略)
 いや、証言者には、もう最初から絵があるのですよ。つまりそのときの事件の風景が当然ながら頭に焼きついている。しかし、それを表現できないだけなんですよね。筋は言うけれども、それはまず自分の表現できる範囲内の部分だけを言うんです。(略)だから聞き手がなんとかそれに近づく努力をするしかないのです。

 

本多 (略)しかしこちらが正しかったら、つまり事実が正確だったら、いくら相手が多数でも戦端を開かざるをえなくなりますからね。多数であるほど闘志がわくし、新聞記者をやっていても、みんなが認めていることを再確認したところでちっともおもしろくないでしょう(笑)基本的に「論理とは事実なり」と私は思っているのです。

つまり、「天皇の軍隊」という硬直したイデオロギー的枠組みの中で兵士を戦わせたことによって天皇制権力は、皮肉にも彼らの戦士としてのアイデンティティのある部分を、とくに一般国民との間の精神的紐帯を確実に破壊したのである。(吉沢南)

 もう一つのバイアスは彼らが自己の戦争・戦闘体験に正の意味づけを与えたいという強い衝動を持っていることである。兵士の意識の次元においても正当化する論拠の乏しい戦争であるだけに、それは多くの場合、戦時下における自分の生き方の「純粋さ」や「ひたむきさ」を強調する論理となって現れる。(吉沢南)

南京で拝見した本多勝一氏の聞き取りは「風景の復元」の方法によって口述史料の矛盾を発見し、再質問,再々質問によってそれを訂正・修正したり、それらを確認するなかでさらに新たな事実を聞き出している。つまり、聞き取りの作業中に口述史料の批判を行い(口述者の批判にならないところも本多氏の力量)、「事実の復元」に迫る確実な証言を収集する努力をしているのである。
 南京事件の体験者から最初に私たち歴史研究者が聞き取りを行い、あとで本多氏が同一の証言者からじっくり聞き取ったことがあった。そのとき、私たちが聞き出した「目撃した虐殺現場」が、本多氏の聞き取りによって、「目撃したのではなく、人から聞いた話」に訂正されたことがある。本多氏の「原風景の再現」による史料批判によって、証言者の位置からは虐殺現場が見えない事実を指摘して、証言者にも確認させたのである。(笠原十九司

 反右派闘争、文化大革命、そして最近の「ブルジョア的自由化反対闘争」にいたるまで、めまぐるしく変転する党や国家の「革命政策」に中国民衆は翻弄され、多大な犠牲を強いられてきた。この間、国民が身をもって学んだ知恵は文字資料を残さないことだったに違いない。文字資料は「革命政策」が変化すれば、いつでも「反革命思想」の証拠資料とされる危険性を持っていた。(笠原十九司

字幕の中に人生 (白水Uブックス―エッセイの小径)

字幕の中に人生 (白水Uブックス―エッセイの小径)

★★★★☆

目次
第一章 映画字幕というもの
第二章 字幕翻訳をめざすまで
第三章 字幕という日本語
第四章 あの映画 このせりふ

 (前略)直訳すれば「彼のやり方は不健全になった」で、字幕には「彼の行動が異常になった」と出る。立花氏はunsoundは「異常」ではなく、この作品が正しく理解さえないのは字幕にも一因がある、と指摘した。
 これに対して清水先生は「日本映画ペンクラブ会報」に、つぎのような反論文を載せた。
「英文和訳なら『彼の方法は不健全である』と訳しても合格点をもらえるだろう。スーパー字幕ではそうはいかない。スーパー字幕は一瞬のうちに消える。すぐ次の字幕が現れる。読んで考えているひまはない。字幕は見ただけでぱっと頭に入るのがいちばんよい。このせりふの場合、私の字幕づくりの経験からいって、『彼の方法は不健全である』ではとまどう観客が多く、『行動が異常だ』がはるかに適切なスーパーなのである。こうしるしても立花君はおそらくなっとくしないであろう。なっとくできないのがあたりまえで、スーパー字幕が映画という商品に対してどんな位置にあるかがはっきりのみこめていなくてはわかるはずがない。スーパー字幕はそれほど奇妙なものである」

”I shouldn`t drink it. It makes me acid."(私はこれ〈酒〉を飲んではいけない。これは私をacidにするからね)
 acidは「酸性」の意味と同時に「不機嫌」「気難しい」の意味もある。翻訳者を悩ますダブル・ミーニングのせりふだ。
 それが「今夜の酒は荒れそうだ」の原文だった。言いえて妙な翻訳ではないか。(略)
 今や古典となった『第三の男』は、その後も何人かの翻訳者が字幕を付けているが、私の観るかぎり、このせりふは「今夜の酒は荒れそうだ」になっている。これ以上うまい訳はないと、みな脱帽しているのだろう。

 『フルメタル・ジャケット』では(略)あきれるほど卑猥でカラフルな侮蔑語やフレーズが機関銃のような早口で乱射される。監督はこれをすべて忠実に字幕にのせろと要求した。とても読みきれるものではない。画面の文字をひたすら追い、耳なれない表現にとまどう観客に、映画のほかの部分を楽しむ余裕がはたしてあるだろうか。(略)
 私は一観客として、せりふ以外の部分もきちんととらえたい。耳で音楽も追いたい。盛り込まれた要素を一瞬のうちにあれこれ選択し、いろいろ楽しむ余裕をもちたい。
 そもそもフィルム・メーカーは、自分の映画が字幕で読まれる場合のことを考えて映画を撮ってはいない。その言語を理解する観客が百パーセントの意識を投入して楽しむことを考えてつくられている。「字幕を読む」という行為は、そこに割りこんでくるまったく余分な作業なのである。
 映画をトータルに楽しむことを困難にするような字幕のつけかたに、私は賛成ではない。
(略)
 原田さんはキューブリック監督の要求どおりに翻訳をしても字幕は読めると考えている。シナリオがすでにしっかり頭に入っていて、二度も三度も見返していれば、むろん問題はない。だが入場料を払って映画館にくる観客は、まったくの白紙状態で字幕を読むのである。ややこしい文章だと、理解するのに翻訳した人間の二倍、あるいは三倍の時間がかかる。そのあと、映画を映画として楽しむ余裕がどれだけ残されるだろうか。
「フィルム・メーカーが心血を注いだシナリオの言葉は一語たりとも切るべきではない。読みきれなければ二度でも三度でも観ればよいのだ」と言った映画評論家もいる。評論家は二度でも三度でもタダで試写を観られるだろう。千数百円という安くない入場料を払い、二時間余の娯楽を求めて映画館にくる一般観客は、どうなるのか。腹を立てている私に、清水俊二先生は一刀両断、「映画は評論家のためにつくられているのではない」と言われた。

 かたや練りに練ったシナリオのせりふがあり、かたや観客の映画鑑賞の邪魔にならない程度の字数がある。その中間にはかならずどこかに、限りなく原文に近く、しかも字幕として成り立つ日本語があるはずである。細かい細かい線のうえに、その線を綱渡りのようにたどってゆく努力が、字幕づくりに基本である。
 映画はすばらしい芸術であるが、同時に「一個いくら」で売られる商品でもある。映画に関わる者はその両面を見ていなくてはならない。字幕をつくる者もその例外であるはずがない。

 リチャード・ギアが日本での体験を、こう友人に話しているのを聞いたこともある。
「日本のジャーナリストは真面目なんだよ。冗談を言っても少しも笑わずにメモをとっているから、『今のはジョークです』と付け加えたんだ。そうしたら『なるほど』と真面目にうなずいて、それをまたメモってた!」

 「シー・ブリーズ」のあの香り、また「シー・ブリーズ」をつける男のイメージを知っている人には、たしかに許せない字幕だろう。だが『E・T・』からすでに十年たったいまでも、私はたぶん「オーデコロン」と字幕をつけるだろう。道行く人を十人とめて尋ねても「シー・ブリーズ」を知っている人は、現在でも二人以上いるとは思えないからだ。


飛竜伝 宋の太祖 趙匡胤

飛竜伝 宋の太祖 趙匡胤

★★★☆☆

 誓って、跪拝した。
 北漢を滅ぼし、契丹を追い払い、宋の天下を磐石のものとする。そして、産業を発展させ、文化を豊かにして、開封に世界一の繁栄をもたらす。(略)
 誰にも、邪魔させない。
 もういちどだけ、亡き兄上に目をやって、立ち上がった。
 予こそが、兄上に認められた後継者である。