高江ヘリパッド建設反対のデモ


 沖縄防衛局の高江ヘリパッド工事が再開されるかもしれない(大汗)7月1日に合わせ、東京でヘリパッド建設反対を訴えるデモがあるようです。
 呼びかけは先のエントリーで紹介した「沖縄を踏みにじるな! 緊急アクション実行委員会(新宿ど真ん中デモ)」さん。

高江ヘリパッドお断り! 辺野古新基地お断り! 7.1防衛省ど真ん前デモ


7月1日(金) 

17:30 飯田橋西口を出て左の交差点(交番向かいの角)に集合、街頭アピール

18:00 デモ出発!! 飯田橋西口→神楽坂の商店街を上る→大久保通りへ左折→牛込神楽坂駅通過→牛込中央通りへ左折→外堀通りへ右折→市ヶ谷駅前通過→靖国通り防衛省正門前にゴール
http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20110701

 関東の皆様、どうぞ一人でも多く参加お願いいたします。

高江ヘリパッドに動きが出ています。

 
 6月15日の夜10時、沖縄防衛局が建設予定地に重機を運びこもうとしたようです。
 幸いにも重機搬入は座り込み参加者らによって阻止されましたが、夜10時という住民生活無視&作業員にとっても危険な暗闇の中での仕事を強行しようとしたわけです。・・・・・・今の時期って森の中にはハブいると思うんですけどね・・・・・・ハブに咬まれる事故は気づかずに踏んでしまて反撃されるというパターンが多いのですが、これ一つとってもいかに夜間に森に入る行為が危険か沖縄防衛局は(頭いいくせに)理解できないのでしょうか。


 そして、その後も高江にはたびたび沖縄防衛局の車が様子を見に来ているようです。
 やはり防衛局は7月から工事を再開するつもりであったか・・・とやや呆然とした気持ちになっていますが、何とか私なりにがんばってみようと思います。


 7月に入ったら本格的に危機的事態となると思いますので、どうぞ皆様には注目&支援をしていただきたいです。


 なお、15日の様子は以下の申し入れ文に詳しいので、許可を得てこちらに転載します。掲載ブログは「沖縄を踏みにじるな!緊急アクション実行委員会(「新宿ど真ん中デモ」)」(http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/)さんです。

 

内閣総理大臣  菅 直人 様

防衛大臣   北沢 俊美 様



申し入れ



 6月15日午後10時、沖縄防衛局が突如、車列を作って高江に北上し、ヘリパッド建設予定地への重機の搬入を強行しようとしました。現場で住民の会が素早く対応し、搬入口に人が集まったため、防衛局のトラックは現場には到着せず、大宜味(おおぎみ)の道の駅でしばらく待機し、けっきょく引き返したと伝えられています。

 3月から6月は、ノグチゲラヤンバルクイナの重要な繁殖時期という理由で、政府みずからが工事をおこなわないと定めた時期です。そのみずから作った制限すら破り、高江の住民のスキをねらって重機を搬入しようとは、関係当局はいったいどこまで卑怯なのでしょうか。

 あらためて確認します。高江の住民が求めているのは、話し合いであり、納得のいく説明です。その要求を沖縄防衛局は無視しつづけ、国はスラップ訴訟(国や大企業による司法制度の濫用)までおこない、ただ民主的な話し合いを求めているだけの高江住民を脅かしつづけているのです。15日のことといい、関係当局はどこまで高江住民を踏みにじりつづけるのでしょうか。とくに中央の政府や防衛省は、沖縄の人どうしにそのようないさかいをさせておいて、現地が疲弊したところで軍事施設を押しつけようと、高みの見物を決め込んでいるわけです。どこまで恥知らずなのでしょうか。

 他方で、北沢防衛大臣は21日の2プラス2で辺野古新基地の滑走路を「V字案」に決めると、13日に仲井真沖縄県知事に一方的につたえました。これもまた、沖縄の人びとと話し合いをしようという意志をまったく欠いた姿勢です。もはや辺野古移設は不可能だという声が、アメリカ政府内ですら出ています。辺野古に執着しているのがむしろ日本政府の側であることは、もはや明らかです。米政府にたいして、辺野古移設の件について「妥協するな」などと、外務省官僚がすがりついたそうではないですか。そこまでしてアメリカの軍事力に取り入り、他のアジア諸国にたいして優位を保ちたいのですか。そういう態度こそ、ますます近隣の国々からの信用をなくし、ますます平和から遠ざかろうとするものでしかない。やがて日本政府がみずからの愚行を直視せねばならないときがくるでしょう。

 以下、申し入れます。



 記



 1. 高江での新たな米軍ヘリパッド建設計画を全面的に中止し、高江住民との話し合いに応じること。

 2. 普天間米軍基地の辺野古移設案を放棄し、普天間基地の無条件撤廃へとかじを切ること。




2011年6月17日

沖縄を踏みにじるな! 緊急アクション実行委員会

http://d.hatena.ne.jp/hansentoteikounofesta09/20110617/1308310883

『福州琉球館物語』(多和田真介/ひるぎ社)


※本書はすでに絶版で出版社も倒産しており、入手は困難です。古本屋、図書館の相互取り寄せサービスをご利用することをお勧めします。
※このエントリーは本書が手元に無い状態で記憶だけで書いた部分があり、細かい箇所に間違いがあるかもしてません。



 かつて沖縄が琉球王国だった時代、中国福建省の福州にある琉球*1朝貢関係にある中国での琉球使節や商人の活動拠点であった。

 本書は那覇市の教育関係者である著者が、福州市との交流の中で関わったできごとのうち琉球館にまつわるものを中心にまとめたもの。
 琉球館に関する歴史事項や研究にも多少触れられているが、それら過去の事実関係が主題とはなっていない。むしろ、琉球処分によって王国が消滅し、中国に渡って琉球館を拠点に王国復興運動をした脱清琉球人たちの運動も収束して歴史の表舞台から姿を消し、屋敷跡さえ跡形もなくなった琉球館が今なおその周辺に住む(住んでいた)琉球人や中国人、そして著者の運命に影響を与えていること、つまり過去と現在のリンクによって生まれた「物語」が語られている。

*1:ブログ主が琉球館を訪ねた時のエントリは→http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20100303/1267610390、本書では「跡形も無い」とあるので、おそらく復元されたものであろう

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高江、どうしましょう?


 忙しい毎日を過ごすうちにもう6月になってしまった。

 今年2月、沖縄防衛局は東村高江の米軍ヘリパッド建設を強行しようとした。全国から多くの人々が駆けつけ現地で反対運動を行い何とか建設を阻止した。また3月に入るとノグチゲラの営巣期間に入ることから、2月末をもって防衛局の本格的な工事はストップしている。
 しかし、そのノグチゲラ営巣期間は3月〜6月であり、7月になればまた防衛局は工事を再開させるかもしれない。これにどう対処するか?

 高江のヘリパッド建設工事は辺野古沖の新基地建設と異なり簡単なものだ。2月に防衛局は数十人の業者を連れてきたが、あの人数で数日間ちゃんと工事が行われれば完成してしまうものである。

 つまり現場レベルでの闘いは、辺野古よりもさらに反対運動側にとって、それこそ作業に必要な土嚢の搬入を一つでも減らす,作業員を一人でも多く中に入れないようにするというレベルの非常に困難なものとなる。しかも高江への交通アクセスはとても不便で、県内の人間でさえ容易に通うことはできない。2月の反対運動は「ともかく3月まで持ちこたえれば工事はいったんストップされる」という見通しがあり、だから多勢に無勢、アクセスの困難という無理をおしてみな全力でがんばることができた(しかし、あれは相当に無茶な闘いではあった)。

 だが、もし7月に工事が再開されるとなると、この「×日間持ちこたえればいい」という見通しが無くなる。しかも防衛局側はいくらでも(私らの税金で)人員を確保することができ、しかも数日間工事できれば完成するという状況だ。反対派が座り込みして何とか工事を遅らせようとしても、防衛局側からすれば、毎日少しづつでも座り込みの隙をついて(なにしろ向こうの方が多いのだ)土嚢や人員を中に入れていれば、数日間の作業が一ヶ月くらいに延びるかもしれないが、ヘリパッドを完成させることができる。


 私としては辺野古にしろ高江にしろ、国が基地建設を強行しようとする時、座り込みなど現場で非暴力な手段で工事を遅らせることの意義自体は認めるし、駆けつけてくれる人たちを尊敬する。
 しかし、やはり現場レベルだけではダメなのだ。

 辺野古の基地建設がなぜストップしているかと言うと、まず現場レベルで海上座り込みなどを行い、そのような闘いへの共感によって、あるいはその現場の闘いによって工事が遅れているうちに、少しずつ県内そして全国において反対の声が広範囲に広まってきたからだ。現場の闘いと新基地建設に反対する輪の広がりは相互に関連している。


 現場の闘いは、孤立していれば国にとって潰してしまうのはとても簡単だろう。しかし、国が辺野古の現場の闘いを潰せないのは、たとえ現場には来れなくても新基地建設に反対する県内と全国の声が強固に存在するからである。


 高江はこの点がまだまだ弱い。真の課題は防衛局が現れた時、いかに工事現場に入れないかという方法論ではなく(←これはこれで重要なことだが)、いかに広範囲な建設反対の世論を作っていくかである。
 しかし、ここで私も頭を抱える。
 例えば、防衛局が押しかけ座り込み闘争が起これば、その様子をネットなどに流して全国の人々に呼びかける、ということは思いつく。注目も防衛局が来ていない時期に比べグンと上がる。議論も盛り上がる。

 では、防衛局が来ていない今、すなわち大きな動きが無い今、いったいどうやって人々の注目を集め、反対の世論を作っていけばいいのだろう? 2月の時の苦労から学んだのは、事が起こってからでは遅い、ということである。しかし、事が起こってもいないのにどうやって多くの注目を集めればいいのか・・・・・・私はこの点で大いに頭を抱えてしまう。


 とりあえずは地道に情報発信、するしかないだろが、果たしてこれがどのくらいの効果があることか・・・・・・それともやはり意味があることなのだろうか? 私にはまだわからない。


参考エントリー 

「高江ヘリパッドについて」(http://d.hatena.ne.jp/poppen38/20110220/1298229644


高江ヘリパッド参考サイト

ダイレクトな現地の様子
http://takae.ti-da.net/(やんばる東村 高江の現状)

ヘリパッド問題の経緯
http://helipad-verybad.org/(ゆんたく高江)

沖縄の作家・目取真俊氏のブログ。2月の高江の様子が詳細に描かれている
http://blog.goo.ne.jp/awamori777(海鳴りの島から)

大雑把に分かる『高江ヘリパッド問題』(ゆんたく高江)
http://helipad-verybad.org/modules/d3blog/details.php?bid=80&cid=5

北部訓練場の返還とヘリパッド位置の変化図(ゆんたく高江)
http://helipad-verybad.org/modules/d3blog/details.php?bid=38

「大江・岩波」裁判にまつわる雑感

 だいぶ日が経ってしまいましたが、被告(大江氏&岩波)側の勝利に終わった「集団自決」裁判に関して、現段階で思うところをつらつらまとまりなく書きます。

 基本的には
4月22日の「Apes! Not Monkeys! はてな別館」のコメントに書いたことの焼き直し&捕捉です*1

*1:5月22日、この記事を書きかけの段階で誤って公開してしまい、すぐに下書きに戻したがTBはApemanさんのとこに送られてしまった。なのでTBを辿って来てくださった方、この記事がそうです。二重になるので今回はTBしません

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「集団自決」訴訟勝利(沖縄新聞報道を中心に)

 ちょっと遅れましたが、大江氏の『沖縄ノート』と岩波書店を槍玉にあげ、教科書検定にも影響を及ぼし、ついに十万人の抗議集会にまで発展した一連の事態の発端である裁判が、大江氏・岩波側の勝利で無事に終了した。ひとまずは喜ばしく、ホッとしている。

 まとまった記事を書く時間も文献にあたって調べなおす時間もないので、とりあえず沖縄の新聞報道と判決文の紹介を中心に簡単に感想を書いていく。



 沖縄タイムスでは、「集団自決」の証言者たちの言葉を紹介している。そのうちの一人、大江氏側で努力された金城重明氏について。(太字はブログ主)

那覇で開かれた一審の出張法廷で被告側証人として体験を証言したのは、2007年9月。戦時の証言や講演を請われれば「避けてこなかった」という。最愛の母と幼い妹弟を手にかけた16歳の記憶を、胸の傷をえぐられながらも語ってきたのは「生き延びてしまった者の使命」という信念からだ。 
 出張法廷での原告側について「『集団自決』が起きた当時の社会的背景には触れず、私個人の行動を問い詰めるような尋問に終始した」と振り返る。「一木一葉に至るまで軍の支配下だった沖縄戦。軍の命令なしに『集団自決』は起きなかった」とあらためて口にし、原告の主張を退けた「最終判断」をかみ締めた。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16972

 最近も某池田信夫が一切その背景の説明(誰をなぜ殺さざるを得なかったのか)をせず、あたかも金城氏こそ、引いては「集団自決」を告発する大江氏の方にこそ「屠殺者」がいるかのような印象をあたえる文を書いていたのを見てめまいがするほどの怒りを覚えた。軍命否定派が金城氏を攻撃し貶めようとしている話は知っていたが*1、その根源は原告側の裁判における戦術だったのだろうか?
 いやはや、それにしても何とも暴力的な論法である。この論法は「集団自決」に留まらず、さまざまな口封じに応用できるだろう。例えば、中国などにおける旧日本軍の残虐行為を告発するため、元日本兵が自分が参加させられた残虐行為について率直に述べると、旧日本軍の組織としての問題はスルーされ、この旧日本兵の個人的な責任と人格に問題を帰すことも可能になる。旧日本兵の証言は「自分は残虐行為をしていないが、他の日本兵がしているのを見た/聞いた」というタイプの証言ばかり多いらしいが、上の論法の暴力にさらされる危険を思えば、なるほどそのような言い方ばかりの証言になるのも道理である。


 沖縄タイムスでは他に二人紹介しているが、そのうち一人は

沖縄戦時下で座間味村助役だった宮里盛秀さんの実妹で、軍命を証言してきた宮村トキ子さん(79)=沖縄市=は「裁判が始まってから、戦争を忘れようと思っても忘れられず、夜も眠れなかった。これでようやく兄も穏やかに成仏できる。周りが尽力してくれたおかげ。感謝している」と話した。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16972

 上記のような裁判が始まって以来の生存者たちの苦悩を考えると、いったいこの裁判は何だったのかと改めて思う。
 しかし、皮肉にも裁判が起こったことで、今まで口をつぐんでいた人々*2が沈黙を破り、新たに証言を行うものも出てきた。しかし、そのためには上記のような苦悩が伴う。
 下記の目取真俊氏のブログに詳しいが、戦争の真実を知るためにはすでに十分傷ついている被害者の胸をえぐらなければならないことがある,それは是か非か,という修羅のような現実と問いがある。それは、そこまでして「真実」を知らなければならないか,被害者の傷を必要としなければならないのは歴史研究の失敗・不備ではないか・・・という問いにも発展するだろう。

もし、大江・岩波沖縄戦裁判が提訴されず、教科書検定問題が起こらなかったら、宮平春子さんの証言は埋もれたままになっていた可能性が大きいのではないか。そうなっていたら、宮城晴美さんが『母の遺したもの』を書き直して新版を出すこともなかっただろう。
 そのことを考えるとき、沖縄戦の記録と検証、研究のあり方について、大きく重い問いが突きつけられているのを感じる。言うまでもなく、これは沖縄戦研究者だけでなく、沖縄戦の記憶と記録を自分の問題として考え、継承しようとする者すべてに突きつけられている問いだろう。沖縄戦について学び、考えるときに、その問いを絶えず自分の中に持ち続けねばと思っている。
http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/7ac831d8a295e2e57cfd74396f246726

 沖縄タイムスの特集では、長年精力的に「集団自決」と裁判を追ってきた謝花記者が渾身の思いを込めたような記事を書いている。ぜひ全文を読んで欲しいが、特に重要な点を引用。

沖縄の人々が生きてきた歴史を、なぜ自ら立証しなければならないのか。なぜ法廷という土俵で、沖縄戦を審判する闘いに引きずりこまれなければならないのか。この裁判に、沖縄の人々が意義を見いだすとすれば、「集団自決」の記憶を再び生き直すきっかけになったということだ。
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2011-04-23_16957

 私は過去の悲劇を現在の教訓や意義に変換してしまうことに疑問を持っているので、「意義」という言葉には少しひっかかる。しかし、重要なのは「なぜ」という記者の心の奥底から湧き上がってきているかのような問いだ。そこにはこの裁判に対する根本的な疑問と怒りがある。訴えられたから「集団自決」や沖縄戦という自分達が生き死んでいった歴史が裁判の俎上に乗せられるのは、決して自明のことではない。
 さらにはこの裁判の過程ではからずも演じられてしまった「歴史の真実を知るためには被害者の胸をえぐらなくてはならないことがある」ということに対する疑問、そのような事態あるいはそのような事態が生起せざるを得なかった状況(裁判それ自体や「証言」に期待をかける自分達のことを含む)に対する怒りもあるように感じる。

 また謝花記者は、今回の勝利が沖縄のみならず全国からの支援があったがゆえであることを書き、このような裁判を起こされたからといって、本土の大多数の人々とは信頼・共感しあうことができること、未来には希望があることをはっきりとさせている。



 最後に、この裁判は最高裁が原告の上告を棄却したことで高裁の判決が確定した。しかし、中には「この裁判を通じて梅澤隊長(赤松隊長と書いている人もいたが)が自決を思いとどまるよう住民に諭したことが明らかになった」とか、明らかに高裁判決文要旨も読んでいないとしか思えない*3発言をしているみたいなので、ちょっと関連箇所を紹介してみよう。(太字はブログ主)

【証拠上の判断】
(1)控訴人梅澤は,昭和20年3月25日本部壕で「決して自決するでない」と命じたなどと主張するが,到底採用できず,助役ら村の幹部が揃って軍に協力するために自決すると申し出て爆薬等の提供を求めたのに対し,求めには応じなかったものの,玉砕方針自体を否定することもなく,ただ「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであると認めるほかはない(判決208頁以下に詳述)。

(2)宮平秀幸は,控訴人梅澤が本部壕で自決してはならないと厳命し,村長が忠魂碑前で住民に解散を命じたのを聞いたなどと供述するが,明らかに虚言であると断じざるを得ず,これを無批判に採用し評価する意見書,報道,雑誌論考等関連証拠も含めて到底採用できない(判決240頁以下に詳述)。

(3)梅渾命令説,赤松命令説が援護法適用のために後から作られたものであるとは認められない。これに関連して,照屋昇雄は,援護法適用のために,赤松大尉に依頼して自決命令を出したことにしてもらい,サインなどを得て命令書(?)を摸造した旨を話しているが,話の内容は全く信用できず,これに関連する報道,雑誌論考等も含めて到底採用できない(判決189頁以下に詳述。203頁で総合判断。)。

(4)宮村幸延の「証言」と題する親書の作成経緯を,控訴人梅澤は,本件訴訟において意識的に隠しているものと考えざるをえない。証拠上認められるその作成経緯に照らし,「証言」は,家族に見せ納得させるためだけのものだと頼まれて初枝から聞いていた話をもとに作られたものば過ぎず,遺族補償のために梅澤命令が摸造されたものであることを証するようなものとは評価できない(判決194頁以下に詳述)。

(5)時の経過や人々の関心の所在,本人の意識など状況の客観的な変化等にかんがみると,控訴人らが,本件各書籍の出版等の継続により,その人格権に関して,重大な不利益を受け続けているとは認められない(判決273頁以下に詳述)。
http://okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_hanketsu_youshi.html

 うわっ、バッサリだ・・・私、あんまり裁判文章って読んだことはないけど、こんなにバッサリ書くものなのか。
 もちろん裁判官は歴史家ではないし、裁判の判決が史実として権威を持つわけではないし、またそうなってはいけない。それは歴史家と私たちの仕事である。(だがこんなにバッサリされる証言者を引っ張ってきた原告側とその証言を無批判に援用した者は批判すべきだけど)
 しかし、「裁判を通じて隊長が自決を思いとどまるよう諭したことが明らかになった」なんて言うのはどうやっても不可能だと思いますがねぇ。

*1:あまりに否定派の行為がおぞましいのでなるべく聞かないようにしていたけど

*2:座間味、渡嘉敷の「集団自決」の場合、互いに「自決」を手伝いあった島民たちが戦後も狭い地域で顔を合わして生きていかなければならなかったという状況の下、「集団自決」に触れないことが不文律となっていたと言っていいだろう

*3:読んでいて言っているのならさらに問題だが

3月読了記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

八路軍の日本兵たち―延安日本労農学校の記録

★★★★★

杉本「前線できいたところでは、八路軍は捕虜を殺さないということでしたが、本当ですか」
張氏「本当ですよ。安心して下さい」
杉本「殺されないということになると、困るんですよ」
張氏「えっ、どうしてですか」
杉本「捕まったときには、もうおしまいだと観念したんです。『万一捕まったら、相手は匪賊だから、なぶり殺しにされる』と聞かされていましたから。その日本軍の言い分はデマだということはわかったんですが、もし八路軍が私を殺さないとなると、私が自決しなければならないことになるでしょう。かえってそれは残酷ではないですか」
張氏「そういわれては、かえって私たちは困ります。殺せと要求されても、絶対にころしません。このことは私たちの軍律であり、同時に私たちの信念です」
杉本「私たち日本人は『生きて虜囚の辱めを受くることなかれ』と教育され、それが男としての道だと信じています」
張氏「おどかさないで下さいよ。まちがっても自殺などしないで下さい。すこし気楽に考えたらどうですか。ともかくせっかく来られたのですから、私たちの生活を経験してみるのも、話の種になるのではありませんか」
杉本「そんなゆとりはありません。生きるか死ぬかで頭がいっぱいです」
張氏「日本のことわざに『死んで花実が咲くものか』と言うでしょう。あせらず急がず時間をかけてゆっくり考えようじゃないですか。帰りたくなれば帰してあげます」

 部隊から部隊へ、地区から地区へとまわるうち、ある日、宿泊予定の小村に着くと、なんとほとんどの家が焼きはらわれているではないか。一家五人が殺された無残な現場にも出会った。日本軍がやったのだ。それまで私は日本軍の蛮行現場を見たことがなかった。
 小林や岡田は「日本軍の蛮行は事実だ」といっていたが、私には信じたくない気持ちがあった。それまで私が見てきた日本軍は、都市や駅に駐屯している平穏な顔の日本軍で、その裏に獰猛な顔がかくされていることに思い至らなかったのである。
 しかし、今回はちがった。この生々しい事実に直面して、裏切られた思いと怒り、被害を受けた人びとへの申し訳なさで身体がふるえた。
 私たち二人が日本人であることを知った村人の顔が、とたんに変わった。あの憎悪にもえたった目の光を私は忘れることはできない。江右書氏の必死の説得で、私たちに向けられた民兵銃口は、はずされたが、心のなかで私は「当然だ、無理はない」と叫んでいた。
(中略)
 いかに敵性地区であるとはいえ、無辜の民を惨殺し、家を焼くという非道な行為は許すことはできない。こんなことをさせてはならない。この非道に中国人が反抗するのは当然だ、と焼けつくような思いにかられた。

 中国の抗戦が正しいとわかった以上、これを支援する以外に私には方法はない。正しいと信ずる道で倒れても、もともと一度は死んだと同じ身で、惜しくは内。この決心がこのときを境に深まったのである。
 太行山脈の東端に立つと、広漠たる河北平原が地平線のかなたまで見渡せる。それを目のあたりにしたとき、思わず郷愁をおぼえ、山をかけ下りて逃げ帰りたい衝動にかられたこともある。しかし、ともかくふみとどまって自分の決心を反芻した。
 決心を行動に移すことだけが、日本軍の蛮行に対する中国へのせめてもの贖罪だ、というのがそのときの私の気持ちであった。また、日本兵士にたいし「馬鹿なことをやめよ」とよびかけて、彼らの蛮行を少しでも減らそう。新しく捕虜になってくる日本兵士にたいしては、同じ苦しみを味わったものとして、新しい道のあることを知らせ、彼らの苦悩の過程を少しでもちぢめる手助けをしよう――
そう考えたのである。
 そのような仕事をするには、捕虜の立場から一歩ふみだし、八路軍のなかで同志とみなされるような立場に立たなければ、十分な活動はできない。その道はただ一つ、八路軍に参加することだ。この私の考えに小林君も同意見であった。前線行脚に出かける前は、退屈しのぎにもなるだろう程度の軽い気持ちであったが、そんな気持ちはどこかへ消えてしまった。

八路軍という軍隊は他に類例のない、まったく不思議な軍隊であった。いったんそのなかに入れば、その作風は人を魅惑し、離れがたくしてしまう軍隊であった。

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★★★☆☆



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