『琉大物語 1947年-1972年』

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 琉球大学。沖縄では略して琉大との名で親しまれている沖縄の国立大学であり、また沖縄にとって初の「最高学府」のことである。そして私の母校(笑)
 本書は日本の大学の中でも特異な創立の経緯と歴史を持つこの大学が米軍の軍政府によって創設された時から「本土復帰」によって「日本の国立大学」に移行するまでを物語風にまとめた通史本である。


 本書の執筆は、著者が沖縄の新聞で「第二次琉大事件」にまつわるアメリカ側の内部報告書<ミード報告>に関する記事を連載したことがきっかけになっている。


 「琉大事件」とは、1953年の「第一次琉大事件」と1956年の「第二次琉大事件」と二回に渡る「反米的」学生を、米軍の圧力に屈した大学側が退学処分にした事件である。
 第一次では大学内で原爆展を開いたことを理由に、第二次琉大事件では当時米軍の武力を用いた土地取り上げに反対するデモに参加し「ヤンキーゴーホーム」と叫んだことを理由*1に、大学の規則には抵触していないのにも関わらず学生が退学あるいは謹慎処分を受けた。この事件は大学が自身が「大学の自治」を捻じ曲げ、教育が軍事支配に屈した事件として琉大のみならず沖縄社会に大きな傷を与えた事件である*2。現在、処分された学生の名誉回復などが進んでいるが、まだ多くの問題は解決したとはいえない。
 

 この事件、特に「第二次琉大事件」は従来、沖縄側の関係者や史料のみで語られることが多かった(しかし概して関係者、特に琉大関係者の口は重い。当時の副学長の日記は処分が決定された前後数日が空白になっているし、処分決定がされた大学の会議の記録も見つかっていない)。それに対して<ミード報告>は当時、琉大を『養子』に迎えていたアメリカのミシガン大学の顧問の公式報告書であり、「第二次琉大事件」の新たな資料として注目される。

 一九四五年以降の沖縄の多くの出来事は。まだ深い闇の中にある。五六年の学生処分についてもすべての資料が出揃っているとは言いがたい。ミードの報告は、沖縄側のドキュメントと相互補完的に読まれることで、沖縄戦後思想史、文学史、あるいは文化史をより深く、より具体的に理解することを可能にする。(P243)


 新聞連載では、この「第二次琉大事件」と「ミード報告」が中心であったが、本書ではそれらを大きく扱いながらも、大学の通史を記している。
 そして著者は、本書は従来語られてきた「琉大史」とは異なる視点で書いていることを明確にしている。

 さまざまな資料を読み分析する中で、そこに記述された琉大像の中にはある種の偏りを有するものがあることに気づいた。そのような偏りとは、琉大について、「布令大学」あるいは「植民地大学」という視点が強調され、コロニアルな色彩を色濃く帯びた大学としてのイメージが先行する傾向にあるということであった。(略)当時、布令に呪縛されていたのは高等教育機関だけでなく、言論の自由を擁護する牙城であるべきマスコミも含めて、沖縄社会の深部まで「布令」による支配が貫徹されていたのである。(P262)
 

 著者の言う「偏った琉大像」とは何か? 本書の記述、あるいは私が見聞きした範囲で沖縄社会内でなんとなくイメージされている(またそれに基づいて私がイメージしている)「琉大史」は以下の二つが特徴的である。

  • 琉大は、米軍の統治に役立つ人材、いわゆる「植民地エリート」を育てるために米軍側の主導によって設立された大学である。
  • 「第二次琉大事件」に対して琉大当局は、米軍側の圧力に唯々諾々と屈して学生を処分した。

 これに加えてあまりメジャーではないが、こういう説もある。


 著者は本書の中でこれら「従来のイメージ」とは異なる琉大像を提示した。すなわち

  • 琉大創設に関わる沖縄人やハワイ移民の沖縄人たちによる主体的な運動の存在。
  • 「第二次琉大事件」における大学当局の勇気ある抵抗。
  • ミシガン大学顧問団の米軍に対する反感。

を描いているのである。

 特に「第二次琉大事件」の大学当局の対応を巡っては

 一九五六年、強権をちらつかせながら学生処分を迫る米軍部に対し、琉大は唯々諾々と従って学生たちの処分をしたわけではない。強大な軍事力を背景に首里城入城を要求するペリー提督と王国の官吏たちのかけひき*4を再現するかのように、首里城*5からやってきた琉大の学長や理事長は、あらゆる言説を動員しながら、「飢えた熊」のようにいらだつ民政官に対して学生たちの行動を擁護し、寛大で雅量ある対応を要請したのである。大学は民政官に「恫喝」されて「ただちに」学生を処分したわけではない。(略)マスコミや政党や労組が直接にヴァージャー民政官を批判することなく沈黙する中で、唯一、抵抗したのは大学当局と学生たちにほかならなかった。(P263)

 と書く。
 琉大当局と学生*6を「唯一、抵抗した」存在とまで踏み込んで描き、従来の琉大を批判する沖縄社会という構図を反転させ、批判されるべきはすべての罪を琉大に押し付けてきた沖縄社会ではないか、と指摘する。
 本書の白眉であり、それまで全体的に淡々と客観的に書いてきたというのに、ここにきて著者の熱い情熱が感じられる文章である。


 私はこれらの主張を新鮮に感じ考慮に値する視点だと思いつつも、ただちに首肯するものではない。「従来の偏った『イメージ』」がもたれてしまうのも仕方が無いそのような側面が琉大という存在にあったことは、著者自身も『否定できない』と言っている。琉大当局の抵抗は史料によれば確かに存在したが、やはり60年近くも沈黙を守ってごく最近まで被害者の学生を放置し、会議記録も「見つからない」状態にある、という事実が意味することも考えなければいけないだろう。
 また米軍支配下における「沖縄人の主体性」について、一見「米軍支配の被害者」として書かれるよりは良いことのように思えるが、その内実を問わなければいけないのではないか、と最近『沖縄映画論』の新城郁夫論文を読んで思うようになっている。
 もう一つ言えば、本書は沖縄県民向けに書かれた「県産本」であり、著者もそれを前提に書いていると思われる。つまり、琉大に対する「従来のイメージ」とそれがもたれるに至った過程、そして沖縄戦後史をある程度知っている相手に向けて書いているのであり、だからこそ「新たな視点」に基づく記述が可能になっているのである。
 しかし、「通説を覆す」という行為は、その通説の基礎知識がある者、その通説が成立するのにも一定の道理や社会的背景があったことを知る者以外が受け取ってしまうと思わぬ誤解を生む危険もある。私は本書はやはり多くの読者に読んでほしいと思うが、本土の性急な結論ばかり求めたがる読者(これは沖縄の若い世代にも当てはまる)にどういうふうに読まれてしまうか、やや心配でもある・・・・・・まあ、大きなお世話だろうが。


 いろいろ書いてしまったが、全体的にとても興味深い本だった。特に琉大の評価はいろいろあるが、琉大のみに罪を負わせた沖縄社会を批判し、当時の複雑な状況と人々の苦悩を描いた点はたいへんすばらしいと思う。
 本書は琉大のみならず、琉大を中心に見た沖縄戦後史を生き生きと描き出している。沖縄戦後史、教育史基礎的な理解がある人にお勧めの一冊。


 

*1:当時処分を受けた学生からはそもそも「ヤンキーゴーホーム」とは叫んでさえいない、という証言もある

*2:この事件については改めてちゃんと取り上げる必要があると思うが、今はこのくらいのまとめのみで

*3:まあ、こういう「イメージがある」と言うのは間違いであるほど、マイナーな説みたいだが

*4:琉球王国の官吏たちは、米流友好条約の締結を迫るペリー提督に対し、架空の政権(笑)まで作って要求をはぐらかそうとした

*5:当初、琉大は沖縄戦で日本軍の陣地が置かれたため破壊しつくされた首里城跡に建てられた。現在は西原町に移転している

*6:学生の抵抗については今までも語られてきたが